未来に希望を託すこと――俵万智『未来のサイズ』を読む

俵万智さんの第六歌集『未来のサイズ』を読んだので、簡単に感想を書かせていただきました。


俵万智といえば、現代歌人のなかで最も有名な人物であると言い切ってしまってもおそらく言い過ぎではないだろう。1987年に出版された第一歌集『サラダ記念日』は、歌集としては異例のミリオンセラーを記録し、その短歌は国語の教科書にも掲載され、現在に至るまで読み継がれている。その俵が7年ぶりに発表した第六歌集が『未来のサイズ』だ。2013年から2020年までのあいだに詠まれた418首の短歌が収められている。

この歌集を初めて読んだとき、読者の心にはおそらく何か違和感のようなものが残されるのではないかと思う。その原因は、この歌集に収められた短歌のなかでも際立って存在感を放つ「社会詠」の多さにある。俵といえば、デビュー作である『サラダ記念日』において、自身の少女時代の恋を三十一文字の定型に収めてみずみずしくうたい上げたその鮮烈なイメージが、どうしても頭にあるからだ。だからたとえば、この歌集をひらいて次のような歌が目に飛び込んできたとき、それらはやはり私たちに違和感をもたらす。

朝ごとの検温をして二週間前の自分を確かめている(俵万智『未来のサイズ』角川書店、2020年、p.8)
都合悪きことのなければ詳細に報じられゆく隣国の事故(同書、p.55)

一つ目に挙げた歌は、この歌集の先頭を飾る一首目の歌である。言うまでもなくこれは、今年世界中で猛威を振るった新型コロナウイルスによってもたらされたいわゆる「コロナ禍」の下で詠まれたものだ。この歌集は、歌が詠まれた年代によって大きく三部に分けられているのだが、第一部には2020年になってから詠まれた歌が収められており、必然的にそのほとんどが、コロナウイルスによって変わり果ててしまった私たちの日常を詠んだものとなっている。また、続けて挙げた二首目は、2014年に起きた韓国の豪華客船・セウォル号の沈没事故に際して詠まれた歌である。「都合悪きことのなければ詳細に」という措辞が何を言わんとしているかは、あえて触れる必要もないだろう。この二首にとどまらず、この歌集には私たちの暮らすこの「社会」に深く踏みこんで詠まれた歌が数多く収められている。なぜ、俵はこのような歌を詠まなければならなかったのか。

俵は『サラダ記念日』の「あとがき」において、同書を「原作・脚色・主演・演出=俵万智、の一人芝居」(俵万智『サラダ記念日』河出書房新社、1987年、p.186)であると表現していた。たしかに、『サラダ記念日』で描かれるのは俵の恋にまつわる歌がほとんどであり、それはいわば「私」が主人公の歌集だったといえる。一方、『サラダ記念日』で一人の「少女」から「歌人」へと変身を遂げた俵はその後、「私」だけではない、「私以外」の何かを見つめる歌を次第に多く生み出していくことになる。1997年に発表された第三歌集『チョコレート革命』ではフィリピンのマニラやインドのカルカッタへと旅をした「旅人」としての経験が作歌に大きく反映されており、2005年発表の第四歌集『プーさんの鼻』とそれ以降の作品では、男児を出産して「母親」となったことが同じく作歌に大きな影響を与えたらしいことがわかる。つまり俵の作品の歴史をたどることは、一人の「少女」が「歌人」となり、「旅人」や「母親」の目線を獲得して社会に向かって開かれていく過程をたどっていくということでもあるのだ。今回発表された『未来のサイズ』で急増した社会詠は、別に突発的に起きた現象というわけではなく、一人の人間が社会に投げ出され、そこで出会うさまざまな物事を見つめる視点を鍛えていくなかでの、いわば個人史的な必然性の果てにもたらされたものだったのではないかと私は考えている。

コロナ禍は、これまで私たちが「あたりまえ」だと信じてきた日常を根底から揺るがすような事件だった。「あたりまえ」という言葉は、『未来のサイズ』に収められたこんな歌ともつながっている。

あたりまえのことしか書いていないなと憲法読めり十代の夏(同書、p.84)

「十代の夏」の率直な感想がみずみずしい一首である。コロナウイルスはたしかに私たちの日常を脅かす存在だった。しかし、そうした「あたりまえ」を侵していくのは決してウイルスだけではないだろう。いまからほんの70年ほど時間を巻き戻せば、他ならぬ人間たちの手によって容易く「あたりまえ」の日常が踏みにじられたこと、そして、そのような過ちを二度と繰り返さないために「あたりまえのことしか書いていない」憲法が編まれなければならなかったことを私たちは想起できるはずだ。同じようなことは、次の歌からも感じとることができる。

あの世には持っていけない金のため未来を汚す未来を殺す(同書、p.53)

歌集のタイトルにもなっている「未来」というキーワードが登場する。この歌は、具体的には先述したセウォル号沈没事故のことを想定して詠まれたものと思われるが、そこに含意されているものは決してそれだけに留まるものではなく、もっと広く一般化できる類のものだ。「未来」という言葉には「私たちの」、あるいは「子どもたちの」という枕詞を重ねることができる(セウォル号の事故で亡くなった乗客のなかには修学旅行中の高校生たちが多く含まれていた)。ここにおいて彼らの未来を汚したり、殺したりするものはウイルスなどではない。「あの世には持っていけない金のため」に平気で他者を蔑ろにしてしまうのは人間に他ならない。私たちの日常、そして未来は、このようにして容易く踏みにじられ、変化を余儀なくされてしまう。『未来のサイズ』はそのストレートな社会詠の数々によって、そうした未来の危うさを露わにしてみせる。

では『未来のサイズ』とは、私たちの日常や未来が脅かされていることを描こうとした歌集なのだろうか。実はそれだけではない。俵の目は変質してしまった日常、いつ崩れ去るともわからない未来を危機感とともに見つめている一方で、未来を汚そうとする外圧をはねのけていく伸びやかな力、そこに希望を見出しもしている。

空欄はゼロではなくて無限だよ やりたい仕事なりたい自分(同書、p.126)
制服は未来のサイズ入学のどの子もどの子も未来着ている(同書、p.96)

一首目は、おそらく俵の息子の進路調査票にまつわる歌であると思われる。進路調査票の空欄。そこに俵は「ゼロ」ではなく、「無限」の可能性が開かれていると詠っている。二首目は、『未来のサイズ』の表題となった歌だ。中学校の入学式、新入生たちの着る制服はどれも少し大きい。中学の3年間で身体が大きくなることを想定して、少し大きめの制服を着ているさまを「未来のサイズ」と表現した歌だ。俵の目には、そんな子どもたちのまぶしい未来が見えている。未来を汚し押し込めようとする暴力的な力を一方では描きつつも、それでもそれに反発しながら「無限」に広がる未来へとまっすぐに向かっていく子どもたちの姿を詠むことによって、この先に待ち受ける未来にあくまでも希望を託そうとしている。それこそがこの『未来のサイズ』という歌集に込められた俵の祈りなのではないだろうか。

もちろん私たちは、いまあるあたりまえの日常が「この先もずっと」続いていくわけではないということを既に実感している。そのうえでこのような明るい未来を歌に詠みこむことは、ともすれば楽観的と受け取られてしまうかもしれない。しかし、そうした現実を知ってなお(あるいは知ったからこそ)、これからの未来に素朴な希望とささやかな祈りを託す行為は肯定されていいのではないか。いまはただ、これまでの日常が失われてしまったこの年にこの歌集と出会うことのできた幸運に、素直に感謝したいと思う。


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