新生児で死んだ娘の弔い方

娘が亡くなって、二ヶ月が経った。
前回のnoteを書いてからいろいろなことがあった。

大ニュースの一つは、母乳の搾乳をやめたこと。
まだ、マッサージをすればほんの少しにじみ出てはくるが、一日の決まった時間に搾乳をするのはやめた。
ついては、母乳バンクに母乳を送るのも、やめた。
私の母乳はほんの少しでも誰かの口に入ったのだろうか。入っているといいな。

三ヶ月ほども習慣にしていた搾乳をやめて、少し寂しくもあるが、やりきったという充実感もある。
娘の四十九日までは出し続けて、お墓に搾りたての母乳を供えようというのが、最近の目標のひとつだったから。
それは達成できた。

四十九日の当日、三月初めのその日は、私は東京にいた。
夫の父方の家の墓は、関東地方にあった。四十九日の法事のあと、娘の骨壺をその墓におさめるため、ふだん住んでいる関西地方から上京してきたのだった。
法事の直前に私は、霊園の事務所の片隅で、胸を搾った。そして小さなショットグラスにほんの数滴の母乳を注いだ。
墓にゆけば、すでに骨壺を納めるための穴のふたは開けられていて、中に骨壺がすでにいくつか納まっているのが見えた。つい二年ほど前に亡くなった義理の父や祖母の骨壺だ。夫のことをかわいがっていたその人たちに、死後の世界で娘の面倒を見てもらうためにも、この墓におさめることにしたのだった。
義理の父と祖母の骨壺は、両手で抱えなければならないほどの大きさだったが、その骨壺に抱っこさせるように、くっつけておかれた私の娘の骨壺は、片方の手のひらの上に載ってしまうくらいの小ささだった。
ふたが閉められ、その上に線香立てや花、母乳の入った小さなショットグラスも置かれた。
私はその日のために、母乳のほかにも用意していたものがあった。それはミルキーの線香だった。
パッケージもミルキーとコラボしたその線香は、(普通の線香より少し短いが)ミルキーを燃やしたみたいな匂いがする。
甘い甘いミルクの香りがする煙は、大人たちには少し甘すぎたが、きっと娘にとっては上品な白檀の香りよりはよいだろう。
よく晴れた日だった。皆「寒くなくてよかった」「雨が降ってなくてよかった」と言いあった。
確かに、冬は寒く夏は暑い石室の中に、娘を置き去りにする罪悪感は軽減されるような良い日和だった。
でも、私にはもともとそんな罪悪感はなかった。だって墓におさめる骨壺の中には、本当にほんの少ししか遺骨が入っていなかったからだ。娘の遺骨の大部分は、大阪の家にある真鍮のミニ骨壺と、私と夫の指にはめられた指輪に、分散しておさめられていた。

娘が亡くなって、弔い方を考える時間は必ずしもじゅうぶんにあったわけではなかった。
娘が亡くなる前日までは、「死ぬ」ということは頭の片隅にちらつきこびりついてはいても、それをまっすぐに見据えることは怖くてできなかった。
看取りの段階に入ったと医師に宣告されてからは、まだ生きている娘から目を離し、話しかけないで、「葬式」なんてワードで検索するなんて、そんなもったいないことはできなかった。
「弔う」が始まったのは、娘が命の限りがんばりきって、娘の体を家に連れていくことを決めた後。娘の体につながっている無数の管を取り、開いていた胸を閉じてもらうために、親の私たちは一時娘のそばから離れなければならず、小さな小部屋に通された。
そのパイプ椅子に座った私たちはようやく、「葬式どうする?」「死んだ娘の体を、私たちが自由に持ち歩いていいの?」などの問題に思い当たった。
そこからさまざま検索したり、誰かを葬ったときの記憶を思い出したり…ということを始めるのだが、まずここに書いておきたいのが、赤ちゃんを亡くすというのはとてもイレギュラーなことだということだ。
赤ちゃんがほぼ正期産で生まれて、すぐ亡くなるというのは、医療が進んだこの現代の日本ではかなり珍しいようだ。
それはたとえば葬儀の手配をしているとき、「赤ちゃんの葬儀は珍しいものですから」という葬儀社の対応にも感じたし、
子を亡くした、いわゆる「天使ママ」のグリーフケアの会のパンフレットで、体験談のほぼすべてが流産か死産の母のもので、新生児死の母の体験談はほんの一件か二件だった時にも感じた。
(葬儀社の対応は、もしかして、赤ちゃんが亡くなってもあまり葬儀はせず、火葬だけで済ませてしまうことが多いからかもしれない。うちは、夫の意向で家族葬をやることになった。)

この記事は、もしかしたら新生児を亡くしたばかりの母親や父親には読まれないかもしれない。
これは私が私のために書いているものだから、できるだけ自分の記憶を喚起するように情景や考えたことを書こうと思っている。もしそれが成功してリアルに書けている場面があるとしたら、新生児を亡くしたばかりの親には厳しいかもしれないし、読んでいる時間もないだろう。
ただ、新生児を亡くした私たちは、新生児の弔い方がわからず、ヒントが欲しかった。だから、もし誰かがふと斜め読みする気になったら、そうしたら、少しでも役立てられるように、書いておこう。私たちがどんなふうに娘を弔うことにしたのか。

まず私たちが娘を弔う上でやってよかったのは、エンバーミングである。
これは、おそらく流産や死産だとあまり選択肢にあがらないのではないか…(そもそも可能なのかどうか?)
つまり、遺体の防腐処理のことだ。場合によっては、顔の修復や化粧もやってもらえる。

そもそも赤ちゃんの葬儀をするかどうかというのは、(親の意向だと思うが、)しないか、両親だけで行うというのが多いというのは聞いたことがある。
ただし私たちの場合は、夫がぜひ葬儀をやりたがった。
ただし、やるとしたら、ここ、関西ではなかった。私たちは東京で生まれ育ち、親族もすべて関東地方にいた。親族を呼ぶなら絶対東京だった。
娘の体を連れていくこと自体は、死亡診断書を携えていれば法律的には可能ということだった。ただし、新幹線に乗せるわけにはいかないだろう。また、心情的には、ついに連れて帰ることができなかった自分たちの家に、娘を連れて行って、そこで家族で数日過ごしたかった。特に、数日後に娘の1か月の誕生日を控えていたから、その日までは…。
そうなると、葬儀までにはどうしても数日、日が空いてしまう。
また、赤黒くむくみ、いかにも苦しそうな顔も、もう少しどうにかならないかという気持ちがあった。
義理の父が二年前に亡くなったとき、葬儀の日程の関係で、夫はエンバーミングを経験していた。
体は10日程度もつようになるし、顔もとても安らかに、生きているときにそっくりになった…というのは夫の言い分である。そこで、エンバーミングが得意だという、義理の父を頼んだ葬儀社に依頼することになった。

娘が亡くなった次の日、私たちは娘にティガーのロンパースを着せ、ピンク色のおくるみでくるんで、葬儀社の会館に連れていった。
繁華街の近くにあるその会館で娘の体の状態を見て、エンバーミングを施してくれるということだった。
娘の顔は、私たちから見たら、亡くなった直後に比べてだいぶよくなっていた。むくみは少しだけ…ほんの少しだけとれているように見えた。もしかしたら、むくんだ娘の顔に慣れただけだったのかもしれないが。少なくとも、全体的な赤黒みはわずかに引いて、肌色の部分も戻って来ていた。
ただし、窓口になってくれた葬儀社の営業部の方は、「ご遺体の状態は…ああ…なるほど…」と難しい顔をした。確かに、今の私が写真で見ても、「美しく完璧な遺体だ」とは言えない。
さて、続いて出てきたエンバーミング部の人たちは、年配の男女だった。
私たちは息せき切って、亡くなる数日前の娘の顔の写真を見せて、口元が固まってしまっていること、本当はもっとかわいい顔をしていることを伝えて、生前、むくみに本当に苦しんだこと…かわいそうなので、少しでもむくみを取ってほしいことを訴えた。
丁寧に娘の体を受け取って、「赤ちゃんの場合は体の水分量が多く、どれだけうまくいくか……」「お顔のむくみは、とれないかもしれない」と言った。
とにかく私たちは娘をあずけた。そして、私はその足で、母乳バンクの登録に行った。

夜になって、エンバーミングが終わっているはずの時間になった。私たちで会館を訪れると営業部の方が待っていて、和室に通してくれた。
「少し手こずっていて、時間がかかっているようです」
と営業部の人は難しい顔で言った。
心臓がはねた。私たちはそれまで何回も何回も、娘のことで同じような言葉を聞いていた。時間がかかっている。思わしくない。手こずっている。そのたびに娘の状態はどんどん悪くなって、娘は苦しめられて、最後には死んでしまった。
でも、もう娘には痛いことも苦しいことも、何もないのだった。どんなに手こずっても、ただ少し外見が変わるだけで…それは私と夫のエゴにしか過ぎなくて、娘の命には全く別状がない。だって娘の命はもうないから。そう思うととても安心して、いくらでも待てた。プロの仕事を信頼して、任せようと思った。

予定の何分遅れだったか。娘は私たちの手元に連れてこられた。
エンバーミング部の人たちは申し訳なさそうに、「むくみは取れませんでした」と言ったが、私たちが娘を見て思ったことは、「きれいにしてもらえた!」ということだけだった。
確かに娘のむくみはほとんど取れていなかった。目はぎゅっと閉じられ、口は挿管された形に固まっていた。しかし、顔色はとても自然な色合いになっていて、苦しそうだった表情が少し穏やかになったように見えた。多分厚塗りのファンデーションと、口元に紅が差されたおかげだったが…
私たちはエンバーミングの仕事に完全に満足した。
私たちはいくつかドライアイスをもらい、これからの娘の体のお世話の仕方についてアドバイスを受けた。
できるだけ娘の体の周囲は冷やしておくこと。ドライアイス、ドライアイスがなくなった後は、アイスノンをこまめに交換すること。本当は棺に入れて、冷気を逃がさないようにしたほうがドライアイスの保ちがよい。
しかし、私たちは娘を棺に入れっぱなしにして、たまに開けて顔を見るだけでは満足がいかないだろうと思っていた。

そこからの数日間は、娘との本当に最後の数日間だった。
そして、娘と一日じゅう一緒にいる、ほとんど最初の数日間でもあった。
私たちは娘を家に連れて帰り、棺の中を冷やす代わりに家を冷やすために、まだ一月の寒い時期だったが、窓を開けた。
おとなたちはダウンコートを着て、ズボンの下にタイツを履いた。
娘はかご型のクーファンに寝かせた。

このかご型のクーファンは、赤ちゃんができたとわかった最初のころに、ぜひ欲しい、娘を寝かせたい、と思っていたものである。
でも、子どもがいる人は知っているかもしれないが、かご型のクーファンに赤ちゃんが寝られるのは、ほんの2~3か月らしい。
その後、かごクーファンは用済みになる。
このクーファンの販売ページには、「赤ちゃんが大きくなったら洗濯かごに使える……もしくは、おもちゃ入れに使える……」などと書いてあるが、それは「赤ちゃんが大きくなったら持て余す」ということである。
だから、赤ちゃんが大きくなって、赤ちゃんや子どもの用具を今後大量に買うことがわかっている母親は、このかごを購入するのをためらう。
かごに入っている赤ちゃんはとてもかわいいし、ぜひ写真を撮りたいけれど、ほんの2~3か月のために購入するのは非常にもったいない。

私にとっても、そこに娘を寝かせるのは、とても短いことになるとわかっていた。
そのかごの購入ボタンをクリックしたときには娘はもう亡くなっていたので、2~3か月どころではなく、娘を火葬するまでの、たったの数日間のことだとわかっていた。
でも、私はもう赤ちゃんや子ども用具を買わなくてよいことがわかっていて、これは娘への最後のプレゼントだったので、ためらいなく購入ボタンを押した。
結果として、このかごは、買ってよかった。
ただし、今まさに絶賛持て余し中である…。

さて、寒風が吹きすさぶ自宅で、私たちは娘をかご型のクーファンに寝かせ、その枕元に小さな温度計を置いた。
娘の鼻からは、まもなく黄色い液体が少しずつ染み出すようになった。エンバーミングの液体なのか、それとも娘の体液なのかはわからない。娘はずっと鼻から挿管していたので、鼻の粘膜や皮膚がとても弱くなっていたのだろう…
実は、娘の鼻から液体がにじみだしていたのは、生きていたころからだった。前の記事にも書いたが、むくんだ娘の鼻や目から少しずつ体液がにじみだしていたので、亡くなる前夜はずっと拭ってあげていた。それが、私たちが生前の娘にしてやれたほとんど唯一のお世話だった。
だから、娘の鼻から液体がにじんでいるのを見た時にも、私と夫はそれをとても自然に受けとめた。

私と夫は、かわるがわる、娘の体のお世話をした。
「光ちゃんのお仕事は、抱っこ」と話しかけながら数分ごとにアイスノンやドライアイスの固さを確かめ(部屋はとても寒かったから、溶けきることはほとんどなかった)時にには交換し、
「お鼻をチュッチュするよ」と話しかけながら、
娘の鼻からにじみでてくる液体をティッシュで吸う。
細いこよりにしたティッシュをたくさん作っておいたり、
私たちが眠っている間に液体が流れださないよう、化粧用のコットンを顔の周りに置いたり。
奇妙なことだが、とても楽しく、充実した時間だった。
娘の体で人形遊びをしていたようなものだが、娘はよくつきあってくれた。
ふつうの赤ちゃんとは違っていたけれど、これが私の赤ちゃんのお世話だという気がした。
亡くなったあとまで、私たちのしたかったことに付き合ってくれる、本当に親孝行な娘。

こうして娘が家に帰って来てくれてから、私たちはやりたかったことをたくさんした。
娘を連れて家じゅうを歩いて、部屋を紹介したり。
娘のかごをソファに置いて、いっしょにテレビゲームしたり。
娘のかごを車に乗せて、大阪の街をドライブもした。
車の中から、梅田のビル群、道頓堀の派手なネオン、心斎橋のきどったデパートなんかを見せたし、通天閣の下も通った。
「天国に行ったら、赤ちゃん仲間に自慢できるねえ!」「こんなにいろんなところ見せてもらえた赤ちゃんいないよ!」と私たちは言いあった。
こんなふうに持ち運ぶこともできたので、かごを買っておいてよかった。
ただしもちろん、娘の顔は生きている赤ちゃんとは違っていたので、人とすれ違うときは娘ごとかご全体にタオルをかけた。
(そのタオルは黄色かったので、赤ちゃん用のかごと合わせると、それはグラタンの上にかかったチーズみたいに見えた。だからそのうち、かご全体にタオルをかけることを「グラタンにする」と呼ぶようになった)
そして1か月の誕生日の日の朝には、「1month」のかわいいカードといっしょに、家族三人で写真も撮った。
その朝、私たちは東京に向けて出発した。その次の日が娘の通夜で、その次の日が葬式だった。

夫が運転して、私は後部座席に座り、隣に娘のかごを置いた。
もちろん娘をあたためすぎないよう、窓は開けっぱなし。ダウンコートを着て、ひざかけをかけていたが、車の中は冷蔵庫みたいで、静岡のPAで買ったおでんが身にしみた。
車中で私は、娘の鼻の具合やアイスノンの具合を数分ごとに確認しながら、喪主のあいさつを書いていた。

生きている娘と会えた親族は、私の父母と夫の母だけ。葬儀に来る人でも、私の妹や、夫の伯父叔母は会えていない。
だから、娘がどんな子だったか、娘が生きている間何があったかを話そうと思った。
しかし、スマートフォンに入力しても、入力しても、終わらない。
まだ途中の段階で声に出して読んでみると、喪主のあいさつとしてちょうどよいと言われた二~三分どころではない。
仕方ないので大胆に短くして、ほんのエッセンスだけ読むことにした。そのとき削った文章は、形を変えて、このnoteの前回や前々回の記事に再利用している。

自動車は滋賀を通り、愛知を通り、静岡を通り、神奈川を通った。滋賀では雪を見られたし、愛知ではナガシマスパーランド、静岡では富士山なんかを見た。
東京に着くと、宿泊場所の夫の実家に行く前に、私たちの結婚式をしたホテルや、東京タワー、麻布台ヒルズまで娘に見せた。
娘はまた、天国で赤ちゃん仲間に自慢できることが増えた。

夫の実家に着いたときにはくたくただった。
その夜は泥のように眠った。

次の日、昼頃に、夫の伯母が実家にやってきた。
この人はとても上品な老婦人で、子どもがいなかったので夫をとてもかわいがっているということだった。
私もよくしてもらっていたので、挨拶して、でもとてもあわただしかったので、「すみません、搾乳の時間があるので」といってその場を離れようとした。
「搾乳するって、どんな感じなの?」
とその人はたずねた。
私は、本当に忙しくて、それに、娘と一瞬だって、離れている時間がもったいなかったので、二言、三言、適当に答えてその場を離れた。

でも、今から考えると……

娘が亡くなったことを伝えた時、その人から、実は何度か流産したことがあるのだと聞いた。
それだけだったけれど。別に、だからなんだとか、その人が話しだしたわけではないけれど。

私は、たった一人で娘のために搾乳しているとき、「直接母乳をやれるのって、いったいどんな感じなんだろうか」と思い、その感覚を、胸が引き裂かれるくらい強く、知りたかった。
産んだばかりでまだ母乳が出ず、必死に乳首をひねっているとき、助産師さんが「赤ちゃんに飲んでもらえると、すごく幸せだそうですよ」と、なんの気なしに言った。
それを、ずっとずっとずっと、体験してみたかった。
目の前に赤ちゃんがおらず、娘が生死をさまよっている状況での搾乳はつらかったし、泣きながら搾ることもしばしばだったけれど、それを続けられたのは、どうやら体に良いという母乳を娘にあげなければならないという義務感もあったが、授乳がもたらすという満足感を体験してみたいというモチベーションも多分にあった。
娘が一口でも直接母乳を飲んでくれたら、もうその次の瞬間に母乳が出なくなってもいいと思っていた。
その瞬間のために、続けていた。

だから、今思うと……私にとって娘に直接母乳をやることは、もしかしたら、何度か流産したことがあるというその伯母にとっての、搾乳だったのかもしれない。
はるか昔にその伯母が、病院のベッドで、どこかの誰かの産声を聞いて胸をかき乱されながら、小さな赤ちゃんのために胸を搾るということを、どうしようもなく妬ましく思った日が、あったのかもしれない。
だから私は、もっと丁寧に答えてやるべきだったのかもしれない。胸をどんなふうに搾るのか、母乳がどんな見た目なのか、
赤ちゃんの口に母乳が注ぎ込まれたとき、どんな表情をするのか…
でもその時の私はつれなく、その場を後にしてしまった。少し後悔している。


その夜が通夜だった。
娘との最後の時間は、風のように過ぎて行った。
私たちは娘を高円寺の会館に連れていった。

高円寺の会館では、通夜の準備ができていた。
また、娘の化粧直しのために、エンバーミング部の人が待機してくれていた。
その人はなんと、大阪で娘にエンバーミングを施してくれた人だった。ふだんは大阪で勤務している人だが、ちょうど東京出張と重なったということで、わざわざ時間を作ってやって来てくれたのだった。本当にありがたいことだった。
その人が私に筆を持たせてくれて、娘の口元に紅を差させてくれた。
それはまるで花嫁の母みたいだった。

通夜と葬儀は葬儀社の方々と、僧侶のおかげでつつがなく執り行われた。
通夜の夜、つまり葬儀の前の夜は、娘と過ごす最後の夜だった。
以前の記事にも書いたように、私は娘にお弁当を作ってやり、絵本に娘宛の手紙を書いてやり、娘を送り出す準備をした。

赤ちゃんを、大人と全く同じように炉で焼くと、骨がほとんど残らないという。
火が強すぎて、骨がすべて燃えてしまうのだ。
だから、赤ちゃんを焼くときは骨を残すためとても気をつかう。
一つが、炉の火が強くなりすぎないよう、炉がまだ冷たい、朝に焼くこと。
もう一つが、棺によけいなものを入れすぎないことだ。
合成繊維の布など、よく燃えるものをたくさん入れすぎると、炎が強くなってしまうことがあるという。
だから棺に入れたとき、娘に着せたのは綿の肌着とよだれかけ。一緒に行ってもらうのは、綿やコットンでできたファーストトイのぬいぐるみと、少しのお守り。そして、絵本くらいにした。
他のものは、みんな写真にして印刷して棺に入れてあげた。
娘が生まれる前に夫がUSJに行って買ったおもちゃや、夫のピカチュウのぬいぐるみ、娘にクリスマスプレゼントとしてあげたしましまぐるぐるのラトル、それから私と夫の写真。
生きている人の写真を棺に入れるのは縁起が悪いと聞くけれど、もしそのために私たちに何かがあっても、どうでも良い。娘が一緒にいてほしいというのなら、一緒にいてあげる。

娘を明日には火葬に送り出すと思うのは、とてもつらかった。
エンバーミングしていたので、私たち夫婦は、ふつうよりも火葬までの時間が長かったと思う。
でも、それでも……いや、そうして、赤ちゃんとまるで普通に暮らしたみたいな時間を少し作ってしまったからこそ、娘との別れはとてもつらかった。
でも、エンバーミングして、さらに化粧直ししても明らかにわかるくらい、やつれてきた娘の顔を見ていると……
やはり、別れは必要なのだということが、少しずつ感じられるようにもなってきた。
娘のむくみきった顔にも慣れて、むしろかわいく思えてきていて、永遠に娘の鼻を拭ったり、アイスノンを交換したりできるような気がしてきていたが、それはほんの短いまぼろしのようなものだった。
娘はただでさえ、死ぬまでの24時間をみっちり私たちにくれていたのだから、これ以上現世に縛り付けるのは、娘にとっての呪いみたいなものかもしれなかった。
そのことを自然に感じられるようになったのも、エンバーミングをしたおかげだった。
亡くなった次の日に通夜、その次の日に火葬してしまっていたら、私は娘の世話をしたかった気持ちをもう少し長く引きずることになったかもしれない。

最後に少し娘を抱かせてもらって…
それで、本当に娘の体とは最後だった。
娘の戒名を書いた紙をおなかの上に置いて、棺を埋めるように色とりどりの花を入れて、棺にふたをした。
ほんの一か月まえまでは、私のおなかの中にきれいにおさまっていた娘が…。
車に乗せて、「このまま火葬場に行かずにどっかに逃げ出そうか?」とか冗談を言いながら、それでもまっすぐに火葬場に向かったのは、娘がしっかり時間をくれたからだ。
火葬場に着いたら、そのままほとんどまっすぐ、娘の入った棺は炉の中に入っていった。

さて、娘の骨のことだ。
骨壺を購入して、ジュエリー工房の予約を入れて、

仏教の風習では、(少なくとも大人の場合は)四十九日を区切りとして墓に納骨するのが普通なのだと思う。
赤ちゃんの場合も、墓に納骨することが多いのかもしれないが、インターネットで検索すると手元供養用のアイテムがたくさん出てくる。
つまり、納骨せずにかわいい骨壺におさめて仏壇に置いたり、もしくは一部をジュエリーなどにおさめて身につけるのだ。
私たちも、それを試すことにした。
親族の手前、ほんの一部は骨壺に入れて納骨するが、娘には「ずっと一緒にいる」と約束してしまった。
その約束を破るわけにもいかないので、手元にいてもらわなくては。
私たちは娘をエンバーマーに預けている間、梅田の仏具屋に行き、小さいたまご型のミニ骨壺を買った。手のひらにおさまるくらいのサイズ。真鍮の置物で、ベージュできらきら光る姿は骨壺らしくは見えない。
娘の骨は、一部これにおさめる。
このミニ骨壺は、旅行に持っていきたいときにも便利だ。真鍮なので割れないし、小さいから持ち運びやすい。
ただし、あまり量は入らないので、のちにもう少し大きいものも一つ買い足した。

また、別にほんの少しとっておいて、それはジュエリーにすることにした。
東京から大阪に帰ってすぐ、私たちは梅田で小さなアクセサリー工房をたずねた。
そこで私たちは指輪の制作の申し込みをした。
本当は結婚指輪に入れてもらうつもりで行ったのだが、サイズやデザインの兼ね合いで、結婚指輪とは別にもう一つ指輪を作ってもらうことになった。
一か月ほどで完成したと思う。

こうして、娘は小さな骨になって、いくつかの骨壺と指輪におさまった。
骨壺は二つあるし指輪もついているが、いちばん、「娘だ」という感じがするのはたまご型の骨壺だ。
たまに手にとって、指でつついたりすると、ほんの少しだけ、本当に娘をつついているような気がする。

誰かのヒントになるかもしれないし、ならないかもしれないが、
以上が、私たちの娘の弔い方だ。

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