娘にやってあげてよかったこと、後悔していること

今日(もう、昨日)は娘の月命日だった。
だからといって、何があったわけでもない。
ここ最近の日々と同じように、一日はおだやかに過ぎていった。

最近、本当に心おだやかだ。

風呂にスマートフォンを持ち込み、シャンプーをしながら濡れた手で画面を撫でて、着信履歴がないことに安堵して、頭を流している最中に、今大事な連絡を見逃しているのではないかと血眼になるような…
娘の面会時間に1分でも遅れたくなくて、在宅勤務の夫が業務終了時間ギリギリに始めた長電話が終わるのを焦りながら待ち、出発時間を何度も何度も確認するような…
そんな切羽詰まった日々は終わった。

ほとんどのことには動じない。
何があっても怖くない。
だってもういちばん怖いことは起こってしまったから。
でも、起こってしまったからこそ、娘はもう苦しいことも痛いこともない。

こんなにおだやかな日々が2月に来るなんて、思っていなかった。
娘を産む前の…たとえば9月くらいの私に、2月14日の私が何をしたか話したら、きっと驚くだろう。

搾乳量も、前回の記事の時よりもさらに減っている。
今は1回50~70cc程度を1日3回出すくらい。
搾乳時間に振り回されることもなく、マイペースに暮らせている。
この回数と量も、12月末の私に教えたら、きっと錯乱するくらい驚くだろうな…

ほんとうに、気持ちも体調も落ち着いて、
そして…娘のことを思う時間も、少しずつ減ってきている。
これは意図的に行っているところもある。
特に最初の方は、娘のことを考えれば考えるほどつらかったので。

そうなるとどうなるかというと、やはり記憶の鮮烈さは薄れ、娘のことが少しずつ遠のき、過去になってきている。
あれからほんの1か月なのに、娘がいない、腹にもおらず、病院にも面会に行かず、1日何回か、『未来』という、ちょっと皮肉っぽい名前の線香に火を灯して煙をあげて母乳を供える……そんな日々が当たり前になっている。

娘の手のやわらかさとか、髪の触り心地とか、息をするときに上下する胸とか、あとは細かい出来事、何日にどんなことをしたか、手術はいつで、その時私たちはどんな気持ちで、娘はどんなふうに運ばれて行き戻って来たか、そしてその後どんな経過をたどって、その時の肌の色はどんな色だったか、娘の腕に刺さっていたチューブ、点滴ポンプのアラームの音、そして亡くなったとき最後にかけてやった言葉は何で、その時の娘はどんな表情だったか、そういった細かいことがすべて、色を失って、私たちから遠ざかり始めている。

おだやかな日々に安堵している一方で、心が落ち着かず、ずっと号泣する準備ができていたあの日々にずっといたかった気持ちがある。
1月の何日だったか、私の産後の手伝いに滞在してくれていた母が帰る前の日、私は夫に「今日がずっと続けばいいのに」と言って泣いたことがあった。
今でも、あの日がずっと続いていてくれればよかったと思う。
私は産後でまだ体調が戻っていなかったし、娘の容態は全く安定せず、エクモに無理やり胸を膨らませられ、呼吸させられているだけだった。
でも、この世に娘の魂があって、体もあった。

あの日には戻れないから、せめて私は記憶しておきたい。
だから…このnoteを始めて、よかった。
少なくともこのnoteに書いたことは、はっきりと思い出せる。
このnoteに書いたことで、(もし、悲しむ時間が増えることが後退で、減ることが進行なら)一週間前に少し後退した時間が増えたことくらい、ぜんぜん構わない。
もっと書いておかなければ。ほかの誰でもなく、未来の自分のためにもっと書かないと。

あとは、noteを書いたことで、数人の同様の立場の人からメッセージやコメントをもらったことも、とてもよかった。
このnoteやXでつながった人だけではなく、誰かが私と娘に対して応援したり、優しい気持ちを持ってくれたりしたとわかると、とても心が温かくなる。

だから、このnoteを始めて本当によかった。



だから私は…
私は…



ここからは、「やってよかったこと/後悔していること」について書きます。
よくあるアフィリエイト(なのか、わからないけれど、商業の香りがする記事)と似たフォーマットで、それらとは違って誰かに何かを勧めるものではない、完全に私個人にとっての「やってよかったこと/後悔していること」を書きます。

そして、まずは「後悔していること」から書きます。
それは、「後悔していること」を最後に書くと、記事の最後がそれで締められてしまい、一番印象に残ってしまうからです。

後悔していること その1
娘の手術の前に使える時間全てを娘のために使わなかったこと

娘は生まれて3日目に、初めての手術を受けた。
それは「姑息術」とよばれるもので、簡易的に血管の流れる具合を変えることで心臓の負担を下げるものだ。数週間後に、二回目の、もっと根本的な手術を行う準備段階の手術だと言われていた。
手術直前の説明では、成功率は90%。
Xのフォロイーの子どもたちも、たくさん受けている手術で、難易度が高いものではないように思えた。

明日が手術という日は、つまり娘が生まれて2日目は、
私は産後2日目で、切開したばかりの会陰はかなり痛かったし、全身がだるかった。
そして、なんと悪いことに…生まれた翌日、つまり昨日から、義理の母が東京からわざわざやって来ていた。

娘のNICUの面会時間は、11~19時で、これは他の病院のNICUに比べれば、かなり長いものだと思う。
ただしルールがあって、1度に2人までしか面会できない。3人以上が面会希望の場合は、交代で面会することになる。

つまり、その時娘に面会したい大人は、私と夫と義理の母という3人だったのだ。
義理の母が、孫に会う気満々で、東京からわざわざやって来ていて、
夫は「気にする必要ない」というけれど、「全ての時間は私が面会するのであなたの時間は1秒もありません」とは私には言えなかった。
義理の母と私、二人で娘に面会したいという気持ちも私にはなかった。

杖をついてよたよた歩く義理の母に私は、「私もシャワーや食事の時間がありますから、代わります。あとはお母さんが面会してあげてください」と言った。
それは嘘ではなかった。
手術から戻ってきて、麻酔が醒めたら、私はいくらでもかわいい娘に会えるのだから、と、譲る気持ちもあった。

でも、それは娘の意識がある本当に最後の日だった。
意識がある娘を、夫が抱く写真を最後に撮ったのは義理の母だった。
意識がある娘を、夫は二時間くらいずっと抱いていたんだって。
それを何度も聞かされて、ずっと私は「よかったね」と言っていたけれど、本当はのたうちまわるくらい悔しかった。

こんなに後悔するのなら、義理の母には一秒も譲らず、私はシャワーや食事なんて一日しないだけで死ぬわけではないのだから、全ての時間ずっとNICUにいればよかった。

健康な赤ちゃんでも、すっぴんを見られたり、気を遣ったり…とかで、産婦の恨みを買うことは諸々あると思うのですが、こんな恨みも買うことがあるので、義理の家族が産後すぐに病院に来ること、めっちゃデメリットあるなと思います。

後悔していること その2
娘が死ぬことにつながったんじゃないかと思うことすべて

いきなりめっちゃ重いタイトルですが、私も他の「天使ママ」と同様かなり自分に原因を求めています。
妊娠初期に葛根湯を飲んだことが悪かったんじゃないか、夫の喫煙が悪かったんじゃないか(そして、その夫がどんなにごねようが、禁煙を断固として求めない私が悪かったんじゃないか)、妊娠中少し動きすぎたんじゃないか、
娘の心臓の病はもう仕方ないにしても、体重が少し軽く生まれたのは、妊娠糖尿病の食事制限を少し頑張りすぎたんじゃないか、動きすぎたから37週に入ってすぐに生まれてしまったんじゃないか、
生まれてすぐ、娘にあげた初乳に何か変な菌が混入していたんじゃないか、NICUに入るときに必ず手を洗っていたけれど、手の洗い方が足りなくて娘に雑菌を移してしまったんじゃないか…
そして、亡くなる前の日に、布団替わりのタオルがかかっておらず、体が冷え切っていたけれど、私がしばらく気づかなかったので体温が下がってしまい、体調が悪化したのではないか。

まだ、誰かが「あなたのこの行動がいけなかった」ときっぱり言ってくれるならば楽だったし、「私が娘を殺してしまった」とはっきりと思えるのですが、
「葛根湯なんかで心臓疾患にはつながらない」とか「でも妊婦の前では吸っていなかったんでしょう」とか「七千歩くらい動いたくらいじゃ生まれない」とか「菌は点滴の傷から混入したものです」とか、人は私に「自分を責めないで」と言うけれど、もういっそはっきり責めるポイントを作ってもらった方がよいのかもしれない。
人間の体に関することは、そうはっきりとたった一つの原因に帰することができないというのは、娘のことでよーくわかったのですが。
一日に何度か、以上のようなことをぐるぐると考えてしまう時間があります。

さて、後悔していることを2つ挙げたのですが、
このくらいにしておこうと思います。
1/1に娘が心停止し、エクモにつながれてから、私は「娘に関することでもう絶対に後悔したくない」と思いました。

長時間心停止し、心臓や脳に影響が出ているかもしれないし、いないかもしれない。胸が切り開かれ、太いチューブにつながれ、2週間経っても状況がよくならなかったら絶望だ(もっと遠回しな言い方でしたが、期限は切られました)と言われました。
娘がぱっちりと目を覚まし、元気に泣き声をあげて母乳をごくごくと飲みだす…ことは、全くないとは言えないが、ないかもしれないし、あるとしてもかなり先になるでしょう。

私は、赤ちゃんに対してしてあげたいと思っていたが、目が覚めてからと先延ばしにしていたことを、できるだけ早くやってあげようと思いました。
自分ができる範囲のことをやってあげなかったことで、後悔するのはうんざりだと思いました。
いちおう産褥期ではあったのですが、今頑張らないでいつ頑張るんだと思いました。

だから、1/1以降のことで、私が後悔していることはとても少ないのです。
だからここからは、やってよかったことを挙げます。

やってよかったこと その1
たくさんたくさん神頼みした

前の記事でも書きましたが自分比かつてないくらい神頼みしました。
1/1に夫に神社でお守りを買ってきてもらい、
1/2には自分でも初詣でに行き、お守りを購入しました。
1/8にはもう一回、医薬の加護があると言う他の神社に行きましたし、
1/11にはまた別の神社にお百度参りに行きました。
買ったお守りは、娘のぶんは娘の部屋に置いて、私のぶんは肌身離さず持ちました。
恥ずかしかったので夫に隠れて、自分を落ち着かせるためにも、深夜にはお守りに何度も何度も祈りました。(それがお守りに対する正しい作法かはわかりません)

お百度参りは本当につらかったです。
今もそうなのですが、股関節が少しやわらかくなっていて、ずっと座っている状態から立ち上がると痛みます。ひざも同様の感じです。(出産のときに少しダメージを負ったのだと思います。治し方わかる方いらっしゃいます?)
百回参るとはいえ、長い参道の階段を登ったり下ったり…というようなことはなく、鳥居から賽銭箱のあたりまでの、たった十数メートルの長さを往復するだけなので、かなり取り組みやすいものではあるのですが…。
前半は、本殿に向かってしっかり礼をして、祈りを唱えて、もし娘を抱いてここに連れてきていたらどんな表情をしているかなと、想像するような余裕もありました。
特に精神的に不安定な時期だったこともあって、「回りながら泣いちゃったらどうしよう」なんて思ったりもしました。

でも、だんだんと余裕がなくなって来て、足に感覚もなくなってくるし、股関節もひざもがくがくです。どんどん暗くなってくるし、疲れすぎて、願い事を一言一句たがわず繰り返すことも難しくなってきます。
ましてや、泣くようなセンチメンタルな気分にはなれませんでした。疲れすぎて…そういう意味では、切羽詰まったお母さんにはおすすめです。無になれるので。

何度も、やめようかと思いました。お百度参りは、本当に百回参る必要は必ずしもなく、自分で決めた回数でよいという記事もあったし…。
でも、娘は胸を開かれて、どんなに痛い思いをしているだろう。私がこれだけのことでめげてしまってどうする、と思いました。
お百度参りと娘の開胸手術は全く関係ないのですが、多少疲れたからといって、中途半端でやめるなんてことはできませんでした。
結局、100回なんとか回り切って、なんとか無理やり押し込むように祈って、帰りにミスドで休憩してから、家に帰りました。

それらの神頼みはすべて、後悔したくなかったからです。
「信心の心が足りなかったから、娘に取り返しのつかないことがあった」とは絶対に思いたくなかったからです。
お百度参りもそうです。存在を知っているのに行かなくて、「行っていたら結果が変わっていたのかもしれない」とは絶対に思いたくありませんでした。

そして結果的に、「神様に祈ってもあんまり意味はなかった」ということがわかり、心が穏やかになったので、とてもよかったです。

やってよかったこと その2
亡くなる直前にはずっとそばにいた

何度も書きましたが、娘の死は私の腕の中で看取りました。
意識があった最後の娘をいちばん長く抱いたのは夫でしたが、亡くなる直前の娘を私は二時間くらい抱き続けました。

亡くなる前日の夕方、もちろん明日娘が亡くなるなんて知らないのですが、私と夫は病院に呼び出されました。
その日の昼間にも面会していたのですが、その時から明らかに様子はおかしかったのです。体は赤黒くむくみ、ベッドと接している肩はさらに赤黒く、うっ血していました。
悪い予感に苛まれながらも面会時間は過ぎ、一度病院をあとにしたのですが、再度電話で呼び出されたのでした。

外科医はマッチョなイメージがあったのですが、娘の主治医の小児心臓外科医の先生は、ノーブルな男性でした。
落ち着いた口調でその先生は、娘の状況がかなりしんどいと言いました。
エクモが回せなくなりつつあり、エクモが回せないと、尽くす手はなく、
もしかしたら今日の夜にもそのような状況になってしまうかもしれないと。
ここからよくなることは、ないとは言えないが、あってもすぐにまたかなり悪くなるだろうと。

「しんどい」という言葉を私は娘を産んでから何度も聞きました。
関西の響きがあるその言葉は、私が関東育ちだからか、曖昧模糊としていて、いったいどういう意味をふくんでいるか、つかみかねていました。
でも、その時の先生のとても落ち着いた口調と、その朝の娘の様子から、「しんどい」という言葉はとても深刻なときに使われる言葉だということがわかりました。要するに、娘はもう死にそうだということです。
看取り、という言葉も出ました。
「それは明日ですか?」と私が聞くと先生は濁すのですが、それは「今日かもしれない」という意味でした。
「もう、ずっと病院にいてもいいですか?」と私は聞きました。

うちの病院のNICUは11時から19時までが面会時間だったのですが、それはNICUの話です。
その時に私の娘がいたのはPICUでした。
それは、心臓の手術を受けて、まだ容体が落ち着かない子たちが入院する部屋でした。容体が落ち着けば、娘も数日でNICUに移動するはずでしたが、もう3週間腰を落ち着けていました。
PICUは、NICUよりずっと容体が不安定な子たちばかりなので、面会時間は1日1時間まででした。

たぶん、看取りの段階の子の家族の要望はできるだけ聞くと、病院の決まりになっているのだと思います。
私たちが病院に泊まり込むことはすんなりと承認されました。
飲食絶対禁止のPICUでしたが、その時だけ飲み物を飲んだり軽食を摂ったりすることも黙認してもらえました。
折りたたみベッドを持ってきてもらえて、「お母さんとお父さんはできるだけ休んでください」と言ってもらえました。
でも、その時こそ、絶対に頑張り時だと思いました。誰だってそう思いますよね。
夫が一度家に帰って、荷物をわんさか持ってきました。
その中に、娘に読んでやりたい絵本もたくさんありました。

やってよかったこと その3
誕生日の絵本を読んであげた

日付変わって、あと4日で娘は1か月でした。
でも、あと数日は娘になかったので、少し前倒ししました。
『ぴよちゃんのおたんじょうび』というなんてことない絵本ですが、
最後のページには、「うまれてきてくれてありがとう」という小さなメッセージが書いてありました。
本当に、読んでよかったと思いました。
娘が生まれてきてくれてうれしいと、娘に何度も伝えられてよかった。
この絵本には最後のページにメッセージを書き込むこともできたので、数日後にはそこに手紙を書いて、棺にも入れました。
この本は本当に、買ってよかったです。

それだけでなく、絵本は何冊も読みました。
娘に、できるだけ私たちの声を聴かせてやりたかったのです。
目は閉じられていて見えなくても、声はきっと聞こえていると思ったので。
読み聞かせたと言ったとき、私の母には「まだ早いよ」と笑われたのですが、「せいめいのれきし」も読みました。
火山岩とか変成岩とか、恐竜とか哺乳類とか、そういうことは本当はどうでもよかったのです。
本当に読み聞かせたかったのは最後のページでした。

娘のむくみはどんどんひどくなって、顔も体も赤黒くむくみ、
目からも鼻からも、黄色い液体がにじむようになっていました。
私と夫は数分ごとに、ティッシュでにじみを拭ってやりました。
それは全然苦痛ではなくて、むしろ楽しかったのです。
だってそれまで娘にしてやれる世話なんて全くなかったので。
尿管が入っていたのでおむつ替えはほぼ不要で、沐浴もさせてもらえず、
ミルクなんて全く飲まないし、私たちはただ娘をぬいぐるみを撫でるように撫でて帰っていくだけだったのですが、その時初めて娘の体の世話をしてあげることができたのです。
母親みたいなことをするのが、ずっと念願でした。

私は数十秒ごとに娘の鼻をぬぐってやりながら、
せいめいのれきしを数時間かけて読みました。
本当に読みたかったのは、最後のページです。
いろんな生き物が現れては消えてきたこの地球ですが、最後のページは、これからの主人公は読んでいる「あなた」になる、という文章で終わるのです。
それを絶対に娘に読んであげたかったんです。

絵本を読み明かし、夫とくだらない話をしたり、昔の話を娘にしてやったりしました。
うっ血して硬くなった娘の手を揉むと、少しだけやわらかさが戻ってくることを夫が発見して、それからはずっと、左手を揉んでいました。左手はやがて、やわらかさを完全に取り戻しました。
右手は点滴が邪魔して揉めなかったので、硬いままでした…本当に可哀そうだった…
左手を揉み、鼻をぬぐい、目をぬぐい、としていると、夜はあっという間でした。

朝方、夫と交代で、ほんの少しだけベッドに横になりました。
ベッドでうつらうつらしていると、夫が看護師さんと何か話しているのが聞こえました。
看護師さんが去っていくのが聞こえて、「どうしたの?」と夫に聞くと、
「心拍数が落ちて…」と夫が説明しだしました。
ふだん150とか、少なくとも100を超えていた娘の心拍数が、私が眠っているときに70くらいまで落ちたようでした。その後私が目を向けたときには、もう少し増えていました。
「今は持ち直したけど……また減ったら……そしたら、もう助からないって。もう死んじゃうんだって」
と夫が泣いているのです。馬鹿だなと思いました。
「そういう段階だから、私たちが呼ばれたんでしょ?」
「先生は、『よくなるかもしれない』って言ったから、『よくなるかもしれないんだ』って思ってた」
と夫は言いました。

もう絶対後悔しないように、やりたいことは全部やりたいと思いました。
1か月の誕生日記念に手形足形をとりたかったのですが、やり方の下調べもしていなかったし、道具もありませんでした。
看護師さんが、判子を押すときの朱肉と画用紙を持ってきてくれたので、それでなんとか取りました。

母乳も……前の記事に書きましたが、ほんの少しだけ、飲んでもらうことができました。
もしかしたら胃には入っていないかもしれないのですが、私は「飲んでくれた」と思ってます。

そして、抱っこでした。
手術してから一度も、娘を抱いていませんでした。
看護師さんに何度も「抱きたい」という要望を伝えたら、エクモの管をなんとか避けて、人工呼吸器は外すことになるが、人力でポンプを押す「バンギング」をすることで、人手があれば抱けるということでした。
日曜日で人員が少ない中だったのですが、朝、娘の病室に五人程度の人が集まって、私たちが娘を抱く準備をしてくれました。

まず私のひざに、娘が乗りました。
水分が抜けず、むくんだ娘は、記憶より重かった。
夫は無邪気に「成長した」と言っていました。それでいいと思った。
そして、温かかった。私はできるだけ体を密着させて、娘に話しかけました。
お医者さんが…忙しい集中治療科の医師が、みずから私のスマートフォンを手にとって、動画を撮ってくれたのですが、その時の私は笑っちゃうくらい早口でした。
阿修羅みたいな苦しい顔をして、どこからも出せないから顔から水分をにじませた娘を、私たちは交互に抱いて、撫でて、はしゃぎました。
大好きだよ、生まれてきてくれてありがとう、と何度も言いました。

数分して、娘はまたベッドに戻りました。
本当に短い時間でしたが、すごくよかった。と私たちは思いました。

またおだやかな時間を過ごして、娘の心拍数はどんどん減っていきました。
いくつだったかな…70くらいになったとき、お医者さんから「もう一度抱きますか」という提案がありました。もちろん、抱きたいと答えました。
夕方五時くらいのこと。
また病室に五人くらいの人たちががやがやと入ってきて、
管を持ち、人工呼吸のためのポンプを持って、私のひざに娘を乗せてくれました。

その時私の後ろで人工呼吸のポンプを持ってくれていたのは心臓外科医の、あのノーブルな男性。私の向いで、エクモの数値を見てくれていたのは、集中治療科の医師でした。

娘はやはり、重くて、温かかった。
娘の心拍数は私の腕の中でどんどん減っていきました。
少し夫も抱きましたが、その後はもう私は、渡したくなかったです。
夫が長時間抱いていたことを本当にうらやましく、ねたましく、悔しく思っていたので。
娘の体は重くって、私は何度も足を組みなおし、抱きなおしました。
抱きなおすたびに、自然な抱き方に、体が密着していくように思えて、よかった。
涙と鼻水がどんどん出ていくから、夫に「ティッシュ」と言って、顔を拭いてもらいました。
(この日から、私の目の上の皮膚は赤く腫れ、治らないままです。誰か治し方を知りませんか)

人工呼吸のポンプを持っている医師は、持ってはいるもののポンプをほとんど押していないように思えました。
エクモの数値を見ている医師も、エクモを操作することはありませんでした。

抱いたまま、私たちはたくさんの話をしました。
話しかけたり、歌ったり…

やってよかったこと その4
娘のテーマソングを作った

もう何度もこっそりこのnoteに書いていますけど、娘の名前は「光」です。
それにちなんだ、馬鹿みたいなあだ名をつけていました。
「ひかぴよまる」っていうんですけど。
娘は認知していたと思います。おなかの中にいたときからずっと呼んでいるので。
そのあだ名の歌を作りました。
「ひかぴよまる~~ぴかぴかぴか~~ひかぴよまる~~ぴよぴよぴよ~~ひかぴよまる~~まるまるまる~~ひか・ぴよ・まる・る」っていう、本当に、ばかばかしい歌詞です。
娘の看取りのために泊まり込んでいるときに、娘の顔を見ながら適当に歌っていたらできた歌です。
この歌を、抱きながらずっと歌ってました。はたから聞いていたら滑稽だったと思いますが、でもこの歌を作ってよかったと思いました。
まるでずっと一緒にいたみたいじゃないですか?
家庭の中で、泣く娘をあやすために作った歌みたいじゃないですか?
大きくなった娘に、「そのバカみたいな歌やめてくれない?」て言われるような歌じゃないですか。
すごく絶望するような気持ちの時でも、この歌を歌うと、なんだかすっきりして、ほほえましいような、楽しい気持ちをほんの少し思い出すんですよね。
この歌を作ってよかったと思いました。

そんな歌を歌ったり、とりとめもないことを話したりしながら、私たちは娘の心拍数のアラームにおびえていました。
70だった数値は60、50、40、と減っていきました。

19時半くらいだったか。
だから、心臓外科医の医師と集中治療科の医師は、2時間くらい私たちの部屋で、何をするでもなくずっと数値を見ていたことになりますが……
私のうしろに座っていた夫が、ずっと同じ姿勢をしていたので腰が痛くなってきたと言いました。
でも、立って腰を伸ばしてまた座るその合間に、目を離したくないと。

その時、心拍数は20くらいまで落ちていました。

その時私はわかっていました。
その日の前日、私たちが病院に到着して、娘の顔を見られたのは19時45分ごろ。
頑張り屋で親孝行で賢い娘なので、おそらく24時間ぴったりは、頑張ろうとしているんだなと……。
だから、そう言いました。あと15分くらいは頑張ってくれると思うよと。

それを聞いた集中治療科の医師が、
「もう2時間くらい、エクモはほとんど回っていません。今は本人の心臓だけで動いています」と言いました。

私たちは知らなかったんです。
確かにバンギングのポンプも動いていないと思っていたけれど、まさかエクモが回っていなくて、娘の弱り切った心臓がひとりでがんばって動いていたなんて。
私たちに別れの時間をじゅうぶんにくれるためだと思いました。
朝までは死ぬなんて全然思っていなかった楽天家過ぎるお父さんと、未練と後悔と妬みばっかりのお母さんが、しっかり未練を成仏させて、娘にしっかりお別れを言うために、二時間こんなに苦しみながら、頑張ったんだと思いました。
こんなに頑張り屋で賢くて完璧な赤ちゃんいないと思いました。
私は本当に心から、他のどの赤ちゃんでもなくうちの娘でよかった、うちの娘が世界でいちばんかわいくて頑張り屋で賢くて完璧な赤ちゃんだから、他の赤ちゃんがうらやましくない、と思いました。

本当に、ずっとうらやましいことだらけでした。
病気がない健康な赤ちゃんはもちろんすごく妬ましかったし、病気があっても娘より軽い赤ちゃん、手術から早く目覚めた赤ちゃん、とにかく意識がある赤ちゃんは全部うらやましかった。外で赤ちゃんを見ると、自分の隣に赤ちゃんがいないことを思い出して動悸がして泣き出したくなった。赤ちゃんの世話がしたくてしたくてたまらなかった。
そうした未練を全部成仏させるために、うちの娘は二時間がんばったんだと思いました。

それで私たちは心から、娘に「ありがとう。私たちは大丈夫だから、もう行っていいよ」と言えたのでした。
娘はその直後に亡くなりました。
本当に、正味24時間でした。


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