作品と心

創り手の心が壊れてまで、やりたい芸術はない。仲良しごっこがしたいわけでもぬるま湯に浸かりたいわけでもなく、傷いて壊れて、傷つけて壊して、ボロボロになった対価に「素晴らしい作品」が手に入るのならば、わたしは早くこの世界から居なくなってしまいたい。そんな世界ならば。

ワクワクする作品は、創り手が一番ワクワクしていないとそのワクワクは誰にも伝わらないと今でも思っている。もちろんその中にも、葛藤があり苦しさがあり悩みがあり、ああでもないこうでもないと言いながら、もしくは創り手同士相談しながら進んでいく。その作業に苦しい顔しながら実は心底ワクワクしている。悩んで試行錯誤してお互いの閃きを尊重し、今日一番の「面白い」を探すことにワクワクしている。そこから素晴らしい作品が生まれる。これが理想だとわたしは思っている。わたしもそうありたいと心がけている。でもね、「ワクワク出来ねーよ」って怒鳴られながら、「これで良いと思っているんですか?」なんて冷ややかな視線を浴びせられながら、もうこんな言葉でまとめたくないんだけど分かりやすくまとめちゃうとさ、パワハラされながら、セクハラされながら、作品つくってそれで、なぜか世間からは評価されるようなワクワクするものが出来ちゃうのもまた芸術なんだね。それを見破れずに「素晴らしい」とそのコンテンツを消費していくわたし自身にも、世間にも、ガッカリしてしまう。生まれた作品と製作過程って全く違うのか、と寂しい気持ちで胸がいっぱいになってしまうんだ。苦しいね。綺麗事でしょうか。

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