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お風呂場エチュード

「お風呂洗うのうまいね」

という母の口車に乗せられ、私はいつの間にかお風呂当番になった。

お風呂洗いは、毎日の日課だ。学校から帰ると、靴下を脱ぎ捨て、まず浴室に行き、渇いた湯船にシャワーでお湯を流す。まんべんなく、浴槽全体にいきわたるように。

お墓参りで、墓石に水をかけるときの気持ちとおなじかもしれない。お疲れ様、お久しぶり、のど渇いてたでしょ、そんないたわりが私のシャワーには込められていた。

お湯が、排水口に逃げるように緩やかに吸い込まれる。

そういえば私はこの排水溝が恐くてたまらない時期があった。誰に聞いたか忘れたが、どこかの温泉で、小さな男の子が、排水口に吸い込まれて、忽然と姿を消したということを耳にしたからだ。

その真実とはとても思えない噂を、私は真に受けて、母親に無理やりお風呂に入れられそうになったとき、泣き叫んで湯船に入ること拒んだ。

そのときの母の呆れた顔はいまでも忘れられない。自分の子供をまったく理解できない不安、恐ろしさが、顔いっぱいに広がっていた。

けれど、その噂の神通力もすぐに消え、私は、またお風呂に入るようになった。

お風呂の栓からはなるべく離れて、湯船の端の方に体育座りをして、お湯に浸かった。足がお風呂の栓をつなぐ鎖にひっかからないように。

もし、そうなったら、私は、パニックに陥るかもしれない。それだけは、避けねばならなかった。

シャワーで、ほどよく湯船が濡れると、お風呂用の洗剤を湯船に噴射し、しばらく待つ。その間に私は、スポンジを濡らし、まるで試験官のように、風呂場全体に目をこらす。すこしの汚れや異変も見逃さないように。

しばらくすると、浴槽の泡がカタツムリのようにのろのろと、一つの場所に集まってくる。泡のかたまりは、一体となり、排水口付近で、行き場をなくしたかのようにとどまった。

私は、気合を入れるように、スカートをたくし上げ、湯船に足を慎重に踏み入れる。

いつか、足を滑らせ、豪快にこけたことがあった。今も右足のひざ付近に青あざがうっすらと見える。同じ失敗をするわけにはいかない。足元は洗剤でぬるぬるである。

足の裏から、お湯の生ぬるさとかすかに残る泡の感触が伝わる。

湯船に無事に降りたつと、浴槽を隅から隅まで洗い始める。一日、人間がはいったくらいでは、目に見える汚れは少ないが、丹念に洗う。

私は、キッチンについた頑固な油汚れをこそぎ落すがごとく、真剣に洗った。

湯船の清掃が一通り終わると、次は、浴槽のフタを洗い、次いで、イス、鏡、床、シャンプーやリンス、ボディーソープのボトルの裏まで、余すところなく洗い、一気にシャワーで流す。

真夜中に洗い忘れがあることに気付くと、気になって眠ることもできずに、お風呂場に急ぎ、忘れた箇所を洗うと安心して、ぐっすりと眠れた。 

最初こそ、母の策略にまんまと騙されたわけだが、いまでは、自分でお風呂を洗わないと気が済まなくなった。むしろ、他人の手をいれたくないとまで思うようになった。

それは、家族でも例外ではない。お風呂場は、私のお城なのだ。

何回か、どうしてもお風呂を洗えない日があった。そのときの私は、友達が近づくのを遠慮するぐらい、イライラしていた。

母が洗ったお風呂場に入った瞬間、私は他人の家のお風呂に来たと思った。そこは、私が落ちつく場所ではなくなっていた。

母には、直接文句を言うことはなかったが、私は、ひそかにもだえ苦しんだ。どうしても、アラが見えるのである。母の洗ったお風呂は、ちゃんと洗ったのかと、言いたくなるような出来映えだった。

私は、母に気付かれないように、もう一度洗い直した。そうすると、安心してその場にいることが出来た。

私は、もっと自分のお城を立派にしたいと考えていた。今のままでも十分キレイだったが、更なる変化を加えたいと思った。いつまでも同じままでは、飽きてしまう。

友達と一緒に、学校から帰っていたときのことだ。おしゃべりしながら、歩いていると、あるお店にディスプレイされていた大きな水槽が目に入った。その水槽には、色とりどりの熱帯魚が泳いでいた。

私は、友達のおしゃべりを上の空で聞きながら、これだと確信した。これこそ、私の求めていたものだと。

私は、湯船に水を張り、熱帯魚を泳がそうと思った。浴槽のふちに手を掛けながら、私は、空想を膨らませた。お風呂場の白い壁、水色のタイル、暖色のライト、湯船には、色とりどりの熱帯魚。

想像しただけで、胸の高鳴りが止まらなかった。

お風呂場はキレイでなくてはならない。それが私の信条だ。

汚れがないというのもそうだが、外観も良く見せなければならない。

お風呂場は、いつの間にか、私の心の中心になっていた。これは、誰も邪魔することが出来ない私だけの世界なのだ。

頭に浮かんだ空想を、実行に移すのを私は、いまかいまかと待ち受けている。

#小説


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