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トツカノツルギと「富雄丸山古墳」


 トツカノツルギと富雄丸山古墳         ひじかたすいげつ

 先日行われた吉野ケ里遺跡の石棺は盗掘されていた。頭部分の石蓋が裏返っていたのは、盗掘のせいであった。蓋の表には✘×✗が書いてあったが、これは出雲の剣や銅鐸にもある。日本ではダメのマークになってはいるが、外国や古代の意味は“愛している”のマークであった。外国では“キスキスキス”の意味である

 こちらはめぼしいものは出てこなかったが、富雄丸山古墳では約3.3mの蛇行剣が出土した。異常に長大で柄を入れると約3.6mであったという。


 この剣が見つかった富雄丸山古墳の“富雄”とは“登美雄“であり、トミノナガスネヒコの“登美”であった。鳥見とも書かれるが、トミは富であり、出雲の東王家の名であった。出雲族は西出雲王家の神門臣家の出身であったアメノムラクモの時代に大和に進出し、生駒山山麓に移住した。神門臣家は葛城に、富家は三輪山から鳥見山山麓に住んだ。そこには等彌神社がある。富家の分家のクシヒカタは登美家を名乗った。後に物部の東征により北に移った。そこが富雄丸山古墳のある場所である。

 調査が行われた結果、この蛇行剣は祭祀用であり、振ることはできない大きさであった。どこかで聞いた話である。物部の神剣であるトツカノツルギは、柄の十倍の長さであった。発見されたこの剣は、柄が約30㎝であり、刀身部分が.3.3mである。

 もともとは出雲の神剣はフツノミタマノツルギであり、トツカノツルギではない。しかし、物部の東征によって大和のニギハヤヒの子孫であった出雲族とニニギの子孫であった物部族は合体した。そしてさらに、蘇我氏によって物部氏は滅ぼされ、その神剣であるトツカノツルギもフツノミタマノツルギも蘇我氏のものとなった。

 そして、この富雄丸山古墳のの築造年代は4世紀後半という。それは蘇我氏と物部しか争う前の時代であった。つまりは物部の時代であった。それから考えると、物部守屋よりも前の時代の物部の神剣と一緒に眠ることのできた者であった。

 大王でいえば、成務、仲哀、応神の時代であった。そのときに活躍した祭祀を行う者とは?


 武内宿禰しかいないのではないか?彼は出雲の流れを母方に持ち、父方には景行天皇を持つ。

 フツノミタマノツルギとトツカノツルギを持つにふさわしい人物ではある。

 そういえば、生前、こう言っていた。

 「物部の神剣であるトツカノツルギは長さが10掴みである。そして本当の名は“八雲村雲トツカノツルギ”という。」と。




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