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【日本国記】 第二章 11 長岡京遷都 3 早良親王・日本とは世界で最も特殊な国である ―古くて新しい―   土方水月 

11 長岡京遷都 3 早良親王(祟道天皇)

 早良親王の父光仁天皇が天皇に指名されたいきさつは「初めは平安京から」で述べたように、末席の藤原百川の発言によってであったといわれる。光仁天皇は天智天皇の第7皇子施基親王の第6皇子であった。第49代天皇となったが、それまでは白壁王と呼ばれていて年齢も60歳であったといわれる。しかし、その第一皇子である後に桓武天皇となる山部王が優秀であっため、その父として選ばれたともいわれる。

 山部王は第一皇子ではあったが母の高野新笠の身分が低かったため当初皇太子にはなれなかったが、皇太子であった他戸親王が廃太子されあらたに皇太子となった。その裏には父光仁天皇即位にも働いた藤原百川の画策があったともいわれる。他戸親王は幽閉先で亡くなり、その母である井上内親王も同じく幽閉先でなくなっている。

 773年に皇太子となった山部親王は781年に父光仁天皇から譲位され桓武天皇となった。そしてその翌日には同母弟である早良親王が皇太子となったといわれる。これらの一連の流れは藤原氏にとってある意味操作しやすく、天皇自身に力をもたせないための策であったのではないか。そう思われる。

 しかし、早良親王の死は別のことであった。彼の兄である桓武天皇は皇位を継ぐとは思ってもおらず、親王としてではなく官僚として働くつもりであったといわれる。そして早良親王ももとは11歳で出家し、親王禅師と呼ばれていた。それが781年31歳の時に兄が即位したことにより還俗し即皇太子となった。

 そして天皇となった桓武天皇は784年平城京から長岡京に遷都した。ところがその翌年、長岡京造営使であった藤原種継が暗殺された。その暗殺には皇太子である早良親王が関与しているとして、廃太子の上乙訓寺に幽閉され、さらには淡路島への流罪となった。そして、早良親王は無実を訴え絶食し、淡路への配流の途上に亡くなくなったという。


 この一件は仏教勢力から遠い地への遷都を企てた藤原氏に対する奈良の仏教勢力が行った犯行との見方があり、元は仏僧であった早良親王の関与を疑ったこともあるが、それよりも仏教関係者に対する見せしめの意味があったのではないかとも思われる。

 そうして早良親王の死後、彼の”怨霊”による事件が多発するようになったといわれる。早良親王と桓武天皇の母高野新笠が病死し、桓武天皇の妃藤原旅子、藤原乙牟漏、坂上又子があいついで病死した。早良親王に代わって皇太子となった安殿親王も病気がちとなり、疫病や飢饉や洪水が相次ぎ起こった。これらにより早良親王を自死に追いやった者たちの心が彼の怨霊に悩まされるようになったという。

 792年には一連の凶事が正式に早良親王の”怨霊”によるものと認められ、鎮魂の儀式がとられたが、その後も災害が発生し”祟り”から逃れられないと感じた桓武天皇は平安京に遷都することをきめたといわれる。そして、平安京遷都の後の800年には祟道天皇の称号を与え陵を造営したが、それでも早良親王の”怨霊”は収まらず、806年桓武天皇は崩御したのであった。

 その後は、早良親王の怨霊は”怨霊”の中でも最強で敬意の意味も込めて御霊と呼び、そのほかの六柱の御霊を併せて鎮魂する御霊会が行われるようになったという。平安京の神泉苑で行われた御霊会が祇園祭の最初であったといわれる。


 そして早良親王は今、平安京大極殿の鬼門にあたる上高野の地に建てられた祟道神社に祀られているという。


 つづく

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