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邪馬台国論争  終結   土方水月


 邪馬台国論争    終結          ひじかたすいげつ


 邪馬台国論争には近畿説はない。邪馬台国論争は九州説と畿内説である。近畿には奈良が含まれないという。奈良は近畿の内側であり“畿内”であるという。そして、邪馬台国論争には東遷説というものもあり、九州のヤマトが畿内のヤマトに移ったという説である。
 

 たしかに九州と畿内ないし近畿には同じ読みの地名が多い。36方位同じ地名があるのは無関係ではありえない。
 

 ヤマトと読む漢字はたくさんあるが、ほとんど当て字であり、もとのヤマトは万葉仮名で “邪馬臺(やまと)" と書く。邪馬堆(やまたい)とも書くが、これは“邪馬臺”。を“やまたい”と読んだときの当て字である。
読みから言えばむしろ “やまだ” が近い。“ヤマト” は “やまど” と “やまだ” の間の発音に近いと思われる。山田という地名が多いのも文字を変えた当て字とも考えられる。

 九州には球磨川があり、三笠山と三笠川がある。そして野方、春日、山門、朝倉、三池、桧原、日田、久米、久住などがあり、紀伊半島には熊野川があり、三笠山もある。そして、額田、春日、大和、山田、朝倉、三井、日原、飛騨、久米、国栖などがある。
 

 東遷したのは明らかではある。しかし、東遷したのが邪馬台国とは限らない。また時期も邪馬台国に時代の3世紀ごろとは限らない。“神武東征”は三回あったといわれる。

 東遷説と畿内説の中心は纏向である。三輪山のふもとであった。三輪山には大物主と幸姫が祀られる。三輪神社(大神おおみわかみ)と幸神社(幸神さいのかみ)である。大物主はもとはオオドシであり、天照国照彦櫛玉饒速日命であり、幸姫は出雲の女神であるサイヒメであり、太陽信仰の出雲の太陽の女神佐姫(三瓶)であった。幸川は狭井川となっている。サイはユリともいわれる。
出雲の蹈鞴五十鈴は三輪山の女神とされた。纏向からは三輪山は東に在り、朝日の出る日出山(ひじやま)であった。

 オオドシは自分が死んだら御室山に祀れと言ったという。御室山とは三輪山のことといわれる。オオドシは出雲の出身でありながらヤマトを治めることができた。それは出雲の力とニギハヤヒの力の賜であった。
3世紀に突如として三輪山のふもと纏向に都市ができた。都であった。その時の王はオオドシでもサイヒメでもなく、ミマキイリヒコこと崇神天皇(イクメイリヒコこと垂仁天皇)なのであった。そして、そのときの女神はヤマトモモソヒメであり、トヨキイリヒメであった。

 239年に亡くなったのはトヨキイリヒメであった。ヤマトモモソヒメが亡くなったとき13歳であった。九州の豊から崇神・垂仁天皇とともにヤマトにやって来た崇神天皇の娘であった。

                                         孝元天皇
                                         |   | 
    - 崇神天皇 - 豊玉姫                  開化天皇、ヤマトモモソヒメ
    |        |                          |     198年薨
垂仁天皇     トヨキイリヒメ                   日子坐王 
           239年薨 


 つまり、崇神・垂仁天皇とともに東征したトヨキイリヒメこそが豊(トヨ)であり、九州で生まれ、纏向に入った姫であった。そして出雲とニギハヤヒの流れであったヤマトモモソヒメの巫女(みかんなぎ)を引き継いだのであった。そしてその名は豊玉姫の名-つまり「卑弥呼」を引き継いだのであった。これこそが「姫(大神)と呼ばれた」という「卑弥呼」の真意であった。そしてその女王国は豊国の宇佐にあったのであり、崇神天皇の出自である日向であった。

  卑弥呼も邪馬台国もそういうものであった。



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