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【日本国記】 限りなく真実に近いアナザーストーリー 9 オオドシとツノミ       土方水月

 

 オオドシとツノミ        ひじかたすいげつ

 大年オオドシは「海火明アマノホアカリ」と呼ばれる。「海照国照彦火明櫛魂饒速日」であった。オオドシは大歳とも書かれる。そして「天火明」とも「天照国照彦火明櫛魂饒速日」とも書かれる。三輪山に祀られる。しかし彼には別名が多い。三輪山では大物主とも呼ばれ、九州では速スサノヲとも呼ばれる。

 オオドシの妻は出雲の第八代大名持大国主ヤチホコの娘である「高照姫」であった。大国主ヤチホコは娘が嫁いだことによりオオドシの義理の父となった。オオドシは大国主ヤチホコの息子となった。

 「高照姫」は「天道姫」とも呼ばれ、奈良の「葛木御歳神社」に祀られる。その御魂は出雲大社裏の「大穴持御子神社」にも祀られる。その社の通称は「三年社みとせのやしろ」という。高照姫タカテルヒメは御年とも御歳とも書かれ、ミトシとも呼ばれる。

 つまり、御年ミトシは大年オオドシの妻であった。そして、出雲の第八代王である大名持オオナモチ八千矛ヤチホコ大国主の娘であった。


 大倭の「高照姫」は「大国主ナムジ」の妻であった。「大国主ナムジ」は倭の呼び方で、どこから来たともわからない出自不明の男であった。一説には秦の始皇帝が遣わした徐福ではなかったかともいわれる。倭の「大国主ナムジ」は出雲の王であるスサノヲの娘須勢理姫を娶り、出雲の王「大国主ナムジ」となった。

 つまり、ヤマトタケルが川上タケルと名を交換してヤマトタケルとなったように、オオドシは大国主ヤチホコと名を交換し、大国主オオナモチとなった。オオナモチ大名持とは出雲の王の称号であった。オオドシである「ホアカリ・ニギハヤヒ」はいつのまにか大国主オオナモチと入れ替わっていた。オオナモチは大名持であったが、大穴持オオナモチとも大名貴オオナムチとも書かれた。そして本当は出雲の王ではないオオナムジとも呼ばれた。


 オオドシは「火明ホアカリ」であり、その妻が「高照姫」であった。そして、「高照姫」の妹であった「下照姫」は「建葉槌・天稚彦」に嫁いだ。これにより、「大国主ヤチホコ」の娘を介して、「大年」と「建葉槌・天稚彦」は義理の兄弟となった。そして、その娘たちの兄妹であった「味鋤高彦」も「大年」と義理の兄弟となった。

 「天稚彦」が亡くなったとき、その葬儀に現われた「味鋤高彦」は「天稚彦」に似ていたため、「天稚彦」が生き返ったと間違えられた。顔が似ていたのは〝親が同じ”か〝親子であったか”であるといわれる。

 もし親が同じであるのなら、「味鋤高彦」の親は「大国主ヤチホコ」であるから「天稚彦」の父が「大国主ヤチホコ」ということに。そうであるなら、下照姫の親も「大国主ヤチホコ」であるから、母親が違ってはいるが結婚は考えにくい。

 逆に、「天稚彦」は高天原から出雲に送られたのにもかかわらず、「下照姫」と結婚し、出雲に染まってしまったために殺されたのであるから、「天稚彦」の親は「大国主ヤチホコ」のはずはなく、「大年ホアカリ」かあるいは他の天孫族が親であった可能性が高い。もしそうなら、「味鋤高彦」の親は「大国主ヤチホコ」ではあったが、「天稚彦」と双子であって、片方が他家に出されたと考えた方が分かりやすい。

 「味鋤高彦」は「大国主ヤチホコ」の子ではあったが、本当は「大年ホアカリ」の子であって、「大国主ヤチホコ」の子として養子に出されたと考えるとつじつまが合う。たしかに「味鋤高彦」は出雲の王である大名持にも少名彦にもなってはいない。

 「味鋤高彦」は臣下のように「大国主ヤチホコ」にも「大年ホアカリ」にも仕えた。彼は、いわゆる〝神武東征”を援けた「タケツノミ」でもあった。そして、倭のいう「大国主ナムジ」は出雲族にとらえられ、行方不明になっていた時期があった。その時の子が「建葉槌」であったとすれば、「大国主ナムジ」が「大年オオドシ」であり、「建葉槌」が「天稚彦」であるなら、「天稚彦」と「味鋤高彦」は双子であったのかもしれない。

 「葛城一言主」は「雄略天皇」の親であったのではないかともいわれるが、「天稚彦」と「味鋤高彦」は双子であったのかもしれないといわれる。「天稚彦」は「建葉槌」であった。「味鋤高彦」は「建角身」であった。



 

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