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人間が作り出してる「迷い」の正体

皆さんこんばんは🌕

前回の初note見ていただいた方ありがとうございます。

今回は前回の続きとなり、
人が新しいことを目の前にした時、誰もがぶつかる「迷い」と言われる壁について書いていきたいと思います。

前回は僕がnoteを始めたきっかけや背景をお伝えしました。

いろんな経緯があり、書きたくなったので書いてみたのですが
実はかなり書くか迷っていました。

その「迷い」と言っていることは新しいことをするときに、誰もが体験することだと思います。

僕も今までウ〇コしようって思った数ぐらい迷ってきましたし、これからも迷い続けるものだと思っています。

しかし、

その新しいことに挑むとき現れる迷いというものは本当に迷いというものなのか

はたまた迷うべきものなのか

という少し疑った視点で今回は読んでいただけると嬉しいです(^^)


仏教の世界では我々は迷い(生死)の世界で生活していて、悟りをすれば
その迷いは消えるというのがあるみたいです。

ではその迷いを無くす方法をこれから書きます、と言いたいとこなんですが
僕は無くす方法はないと思っています。(あくまで個人の意見デス)

なので迷いは常に出てくるものだと思っています。

それではその迷いをどう捉え、どう向き合っていくかの話に移るのだが

まず「迷い」とは何なのか考えたことはあるだろうか。

僕はそのままほったらかしにしてたこともあったし、何で迷ってるかめちゃくちゃ考えたり考えへんかったりでどっちやねんって感じも多かった。

改めて迷いとは何か、なぜ人は迷うのかというとこを掘り下げてみた。

まず、迷いというのは問題があって成立するものだと思う。

人は今自分がいるその場所で問題を見つけたとき
過去の経験(記憶)を元に正しいと思った解決策を選択して判断している。

そして、迷うということはたくさんの選択肢があるから迷うのであって
これは最近僕が興味を持ち始めている心理学でも言われていることだが

ヒック・ハイマンの法則と言って
人は10個の選択肢から1つ選ぶより、5個の選択肢から1つ選ぶ方が早いとされている。

要は選択肢が多いほど人は迷う、ということだ。

そして、先ほど言ったように

人は過去の記憶を元に選択している。


過去の記憶が選択肢となっている。

何も経験せずに今まで生きてきた人はいないから
問題に直面したときにたくさんの選択肢があって迷うということは当然起こりうるものだ。

もっと言うと人は経験するために生まれてきているという話があり、
これに沿って考えると、まず迷わないということはありえない。

この話も実はめちゃくちゃおもしろいのですが、
脱線するのでまた今度書きます


というか少し脱線してました🙇🏽‍♂️


本題に戻すと、
人は問題に対して迷うことは当たり前。

むしろ迷うからまたさらにいろんな思考が生まれ、いろんな経験ができ、良いサイクルになる。

しかし、
「人は迷わんでいいことも迷ってるのではないだろうか」
という松下幸之助さんの言葉がある。

今回書きたい内容がここに隠されている気がする。


今回のテーマである
人が新しいことを目の前にした時にぶつかる迷いと言われているものの正体。


こいつの正体を最近僕がハマってる人間の本質というものに沿って考えていきたい。

まず、「迷い」というもののおさらいだが、
迷いというのは自分が今いる領域で問題を目の当たりにし、その解決策を探すときに生まれるものだ。

では新しいことに挑戦するときのことを想像していただきたい。

まだ新しい領域に踏み出していない時、人は迷いというものを作り出すことが多い。

僕が今書いてきた「迷い」の定義から考えると
新しい領域に入っていないということは、その新しい領域で現れる問題にも
まだ直面していないということで
それは迷いではなくなる。

まだ新しい領域に入ってない、もちろん問題にも直面していないのにその問題を想像して迷っていると錯覚してしまう。

何回も言うが、人は過去の経験、記憶を元に選択している。

想像で作り上げた問題なので、過去の経験にもないから判断材料としても使えない。

実際その問題に直面していないということは
脳が1番わかっていて解決策を探そうとしない。

正確には探せない。

おそらく人間の脳は実体験を通していないものに
解決策を選択するという
プログラムは設定されていないのだろう、、、
(多分)

すると脳がどうしよう、どうしようと
エラーを起こし不安というものを作り出す。

あと恐怖という感情も必ずと言っていいほどその時生まれる

人間は新しいことを目の当たりすると、脳が警戒をするようになっている。

無意識的にどんどんどんどん考えられるリスクをイメージしてしまい、
最終的に行動しないという選択をとるみたいだ。

大昔から人間はそれほど強い生物ではなく
どちらかといえば弱い生物だったらしく、未知なものに対しては
起こり得ることをすぐに推測していたそうだ。

見たこともない新種の食べ物が目の前にあって
いただきやす!って言って食べる人はいない。

毒あるんちゃうん?とかでまず危険を察知し推測する。

まず食べ物かどうかのところから疑う。

大昔から人間はいかに危険を察知して逃げるかが
生きる鍵だった。

防衛本能が他の生物よりも長けていたから、現代でも生き残っている。

しかし、その食べ物を最初に食べた人がいて、食べてみると意外といけたり
もしかしたら美味しかったりと新しいことに踏み込んだからわかることもあり、今の常識を作っている。

そして不思議なことに食べてしまえば、
最初の不安や恐怖は自然と消えていく

僕の先輩であり今は色んなことに挑戦している実業家の方も

「行動なり場面なりに飛び込むまでが実は怖いのであって、飛び込んでしまえば、その対象は自然と消滅する」と言っていた。


長々と書いたが、まとめると

新しい場面に踏み出すとき出てくる迷いというのは
自分がまだ見たことない空想の世界をイメージした
時に感じる不安や恐怖のことだった。


僕でいうnoteを書く前に書こうか迷っていたものは迷いではなかったということ

結局今まで迷いとしていたことを振り返ると
考えた結果でてきたとしても


「とりあえずやってみよう」やった

1番の解決策はとりあえずやってみることなのかもしれない


最初に書いた松下幸之助さんの言葉には続きもあった

「素直な心で自分に問い出すと難局打開できる」と。

迷いという不安や恐怖を無くすことは人間の本能だからそれは不可能だとしたら

やってみないとわからない場面
言い換えると迷う必要のない場面で迷っていると
時間の無駄だ、

ということを松下幸之助さんは伝えたかったのかもしれない。


とまぁこんな感じで今回は終わります😄

自分でもまだまだわかっていないこともたくさんありますが

いろんな体験をしていって気づいていきたいと思います。


最後に今まで書いてきたことをわかった上でnoteを書き始めたんです、、、って

かっこよく言いたかったんですが

これも初めてnoteを書いたからこそ気づいたことなので

今回読んでいただいた方のこれから何か新しいことに踏み出すときの

良いきっかけになればめさ嬉しいですぅ😴


おやすみ💤

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