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神戸元町コネクトロンにてセッションを受けてきたよ。


最近は新しい人間関係が広がってきて、新たな問題が出てきたから。
昨年は長い女子会トークの末に、

①本音で話す
②好きなことを人間関係を築く手段にしない
③好きなことに正直になる

みたいな結論が出てきた。
それを実践すべく、新たなコミュニティーに所属することにした。

新しい人間関係を作り始めると、意外なことにたくさんの人が自分に目をかけてくれた。
いろいろな言葉をかけてもらった。
そのこと自体はありがたくて嬉しい。


でも、自分の核心に足を踏み込まれたときは話が別だ。

「なんで全部一人でやろうとするの?」
「なんで自分が持っているものが嫌いなの?」
「強がるっていうか、重いもの自ら背負い込んで、きついけどまだまだやれる!って自分を鼓舞して何とかやってるって感じ」
「見られることがどうしてそんなに嫌いなの?」
とか。

つつかれたくない部分を人につつかれて躍起になってしまう自分がいることに気づいた。

目をかけてくれる人がいるからこそ、
自分のことを分かってほしいという気持ちが消えず、
「何があって、そのときどんな気持ちになったからこの考えにたどり着いたのか」を理解してほしいという一心で自分の主張にしがみついてしまう、そんな苦しさがあった。
理性は相手の言い分が正しいことを理解していても、気持ちはそれを認めたくない、みたいな頭と心の葛藤が辛いとか。そもそも受け止めてもらえないとか。諸々。

今庄さんに「デメリットは何?」って聞かれてもひと言で出てこなかった。それは苦しみの原因が重なりあってミルフィーユみたいになってるからなんだろうな。いくつも浮かんできて選ぶの迷うけど、どれも本物なんだろうな。

前の女子会でおおよその痛みの居場所が分かって、今になって痛い痛いと周りに訴え始めたみたいな感じ。
疲れた。
「なんでそんなに強がっているの?」と言われて「なんでだろうね」としか言えなくて。
「私もできるならやめたいよ」って思って今庄さんのところに来た。

何に悩んでいるかも曖昧で、強いて言うなら「強がるの疲れたからやめたいけど、どうしていいかわからない」みたいなレベル。それで生きるの楽になるだろうなって確信だけはあった。

それでいろいろ話をしたのは確かなんだけど、セッション中の記憶がかなり曖昧で、前のように流れがはっきりと書けない。
多分潜在意識に話をさせたからだと思う。だから断片的にだけど、私の今の気持ちを素直に書いていきたい。

(ちなみにセッション後3時間くらい頭がぼーっとして、帰りに寄ったご飯屋さんに忘れ物したのは内緒)

まずはじめに、人に全部中身を出して穏やかな気持ちになったのは、人生で初めてか2回目くらい。
大抵は「おかしいよ!」ってジャッジされるか「ワカンネ」って言われるかの2択。
だから人の力ってすごいと思った。
人「から」言葉を「聞く(=聞き出す)」力と人「の」言葉を「聴く」力。この2つは本当にすごい。
極めつけのヨシヨシが、気持ちを優しく揺り動かして隙がない。打ち寄せる波に浮かんでいる時みたいな心地よさがある。救われた感がすごい。


強がったり頑なになったりするのが嫌で、苦しくて、そんな自分捨てたくて仕方なかった。だけど、その根っこにあるのは「寂しいって思っちゃいけない」と考える3歳児だと分かった。捨てちゃいけない、というより捨てないであげたいものだと気づいた。だってかわいそうだし。

顕在意識ほぼ寝てたけど、「寂しいって思ってもいいんだよ」と口に出した瞬間はハッとする感覚があった。
「ああ、そっか。そういうことか。そういえばそうだったな。」みたいな。妙に腑に落ちた。

週末=誰にも強制されないで好きなことできる日だと思っていた私は、週末まで仕事をする母を見て「私より仕事が好きなんだ」と思っていた。そんなこと口に出そうものなら、「家族のことを思ってこんなに頑張っているのに!」と喚くので、寂しいと思うことはいけないことだと思っていた。

3歳の頃から「寂しくなんてない、そんな気持ち持ってはいけない」なんて思ってるんだもの。そりゃあ強がりも板につくよなって。

起きてた頃からつらくて苦しくてずっとぽろぽろ泣いていたけど、この時からは「かわいそうだな」と思って泣いた。

ストレス発散作用があるから泣くのは本人のためになるとか、「悲劇のヒロインぶって泣きやがって!」とか言うけど、本当の意味で自分のために泣いてあげることはすごく難しいんだなぁって実感した。

自分の中に寂しいという気持ちが隠れていることに長いこと気づかなかった。


バスケを辞めたことを謝りたいと思っていた。
自分の中では正しいことを選んだからよいということにはならないらしく、気持ち的な面でずっと和解できていない、わだかまりのある感覚が嫌だった。

正しいことを選んでも幸せになれるわけじゃないことが分かった。
本当は自分の気持ちが大切な人間だったくせに、それを優先しないで正しさという定規に縋ることで安心したかった。認められたかった、これで間違っていないと思いたかった。
だからずっとモヤモヤしていたんだろう。

本当にしたかったのは「自分はこれでよかったんじゃ見たことか!」じゃなくて「あの時はごめんね」って言うことだった。
それで初めてすべて終わりにできる気がした。本当の意味で辞めたことにできる気がした。

正しさで突っ張ろうとするから頑なで、視野が狭まっていた気がする。
何が正しく見えるかでものを選んでいた気がする。
だから本当の意味で自分を幸せにするとか自分の気持ちに寄り添った選択というのができていなくて、違和感がずっとそこにあったんだろうな。

バスケの時みたいに「正しいんだから口出ししないでよね!」ってよくなってることに気づいた。

こういう思考の癖というか「こうあるべき」とか「こうすべき」「だからいいでしょ!」みたいなのが随所にみられることが自覚できた。

それが無くなれば確かに肩の力を抜いて生きていける気がした。
正しさに縋っていたから裁くことしかできなかったけど、今ならいろんなものを許せる気がする。
頭や理性が大事(母みたいになりたくない)だから正しさに縋ったけど、幸せにはなれなかったなぁ。


セッション以降、思い出すこと、目に留まる情報、心を動かされるものが今までと変わった感覚がある。
例えば本屋に行って、こんなものが好きだったな~とかきれいだな~とか思えるのも「持って生まれたもの」であり「才能」だと思うことができた。子これを伸ばしていくのが大事ってことが分かった。
「ロマンチストだね」って言われたことも思い出した。単なる能力ではなくて、こういう才能もあるんだと思えた。大切にしていきたい。

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