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初めて見えた抑圧

瀬川さんに自分の素敵なところ100個書くワークを出された。

自分を受けとめ愛することをしないかぎり、どうなりたいか?どう生きていきたいかは分からないのでこのワークが助けになるのだという。

「美容師さんに髪質がいいと褒められた」みたいなレベルでよく、楽しくやるのが大切だと言われた。

これが終わると自分も捨てたもんじゃないとか、こんなにいい所がある自分を大切にしてあげようと思えるらしい。

最初の方はわりと楽しんで「迷子に声かけられやすいところ」などと書いていたのだが、50近くなるころに表を埋めるのがしんどくなってきた。

表を埋めるという作業を完遂しようと思考が先走るのに対して心がついていかなくなったからだ。

例えば、
・表を埋めるのに他の人から褒めてもらえたことを書けばいいじゃないかと思考は言っているが、心がそれをいいと実感できていないから書けない

・自分の生来の性質や能力に対して、道具としての有用性を認めてはいても、心から好きだと肯定できているわけではないので書けない

・いいところも辛いことをもとに形成されたものが多く、書いていても辛い

これらのことから、感情を伴わない単なる作業としては実行可能でも、それでは意味がないため中断しますと連絡した。


また、長い間感情を抑圧して思考ばかり育ててきた影響で、他人の前で感情的になればなるほど思考で答えを出そうとする傾向があり、瀬川さんの「どう感じましたか?」に対して「気持ち」を述べることが難しいことにも気づいた。

いつも「○○という状態です(なので多分××という気持ちです)」みたいなズレた解答をしているのも、思考が先に行って感情をブロックしているから。

実際「辛いという感情に向き合い続けるのもしんどいし次のステップに進むのはどうか?」という瀬川さんの提案に対しても、本心ではもう少し待ってほしいと思っていたにも関わらず、「今は思考の歪みに気づけるようになったので、もう心の穴ぼこ埋めから次に進んでもいいと思う」と状況説明をしてしまった。

挙句、「その場では感情が出せないけど、一人になると感情が湧いてきて、あの時本当は何を思っていたか分かるな~やっぱり1人の時間が『必要だ』な~」と思った。

その瞬間気づいてしまったのだ。
『必要』というのは状況判断の言葉であり、願望でも気持ちでもない。あくまで第三者視点からのコメントに過ぎない。これがもし「欲しい」だったら願望や感情であり、自分の視点のコメントになりうる。息をするように思考を優先して自分の気持ちを出すことができないということに私は絶望した。

今庄さんと9月に話をしたときもそうだった。

「あなたが子供のころ、母は保育所で他人の子を育てていた。自分は選ばれなかった。選ばれるには本当の自分を殺して親の期待に応え続けるしかなかったのではないでしょうか」と言われて、「かわいそうですね」と私は他人事のように答えた。泣きそうだったのを実は我慢していた


自分に起こったこと、自分に言われていることなのに感情を出せずにどこか他人事のような反応をしてしまう。

子供の頃から感情は悪だと刷り込まれてきた。泣くな怒るなと噴出する感情には文句をつけられるし、冷静でいろ逆境に耐えろ周りを励ませと感情を抑えて強くあるように望まれてきた。

加えて親は感情的で会話が成り立たないうえ、こちらを傷つけるようなことばかり言ってくるので、同じ野蛮人になるまいと必死に思考を育ててきた。

それがきっと私のことを幸せにしてくれる、正しいことだと信じていた。

自分が論理的であるとは思わないが、それでも筋道立てようとすれば話、ひいては私自身を理解してもらえると思った。

思考能力を身につけて筋の通った意思決定ができれば自分を幸せにできると思っていた。

思考があればすべてが解決できると思っていた。
私は今庄さんのセッションを通して自分の思考の癖を見つけられるようになり、自分を観測し、分析しうまいこと自己解体しているつもりだった。

でもこの思考と心の進む速さがまったく違うという状況にぶちあたって、自分がまだ雁字搦めのガチガチであることを実感した。

例えるなら宝物を取り出すために複雑な構造物を解体したら、中から鉛のかたまりが出てきたみたいな。今までのやり方ではここが限界だと感じて絶望したのだ。

ずっと抑えていた感情を開放しなければいけないということが恐ろしいく、辛い。

それでも忘れられているポジティブ感情や大切なものがあるなら、思い出してあげないとかわいそうだし、もう少し感情に素直になってあげてもいいと思った。

正しいことを選んでも幸せになれるわけじゃないことが分かった。
本当は自分の気持ちが大切な人間だったくせに、それを優先しないで正しさという定規に縋ることで安心したかった。認められたかった、これで間違っていないと思いたかった。


自分を正当化する選択も、正しさに縋ることも結局自分を救ってはくれなかったと実感したのに、自分の癖を直すのは大変だ。

というよりも、正確には感情は自分の心の状態を確かめるためのシグナルだ。感情という存在そのものに善悪があるわけではないから、むやみに否定してもいいことはないし、不健康だ。


大切なのは自分の状態を正しく把握したうえでどう行動するかということなんだろう。
思考は行動方針を決定する道具にすぎず、感情を受信できるきちんとした土台なしに方法論ばかり身につけたって仕方ないということかもしれない。

だからこれからはもっと自分の心や気持ちを大切にして耳を傾けられるようになりたい。自分のためにもそうしてあげたい。

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