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映画「名付けようのない踊り」を観て。

中野にあるスタジオ、plan‐B。薄暗い地下の小劇場、急角度の座席の先にある舞台は、ごく浅いプールの様になっており、そこはガソリンの様な黒い油で満たされている。それを泯さんは頭から全身にまとってじわりじわりと動き続けている。                油は筋肉などの隆起をくまなく覆って鈍く光り、全てのしわや隙間に入り込んで際立たせ、泯さんの動きはひどくゆっくりだが止まることはない。

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泯さんの踊りは「場踊り」と呼ばれ、様々な「場」に出向いて行って踊る。劇場や街中の群衆の中で踊ることもあれば、誰一人いない荒涼とした海岸で踊ることもある。                       ただその場において自分が感じたもの(地面、光や風、匂い、建物、自然、人を含む生物すべてなど)を感じきり、共鳴した上で、自分の肉体…中心から手足の先、まぶたなどの細部に至るまで、どう「反応したい」のか、その肉体の欲望を、全てのセンサーを使って感じ取る。そして意識にのる前にもう反応して「踊る」。

泯さんは、ある時はうつぶせになって手足をピクピクさせ、ある時は立って手足を大きく広げて空をにらみ、がくがくと震えながらすすむ。時には大声で吼える。
通常モードの世界にいる私たちは、最初「え…」と戸惑う。全く奇妙な動きであるその「踊り」は、日常の中にあってはあまりにも異質で、何だか気恥ずかしい、直視できない気持ちにさせられる。

人は他者がいる場では「どう見えているか、どう思われるか」という自意識から自由になることはとても難しいと思うのだけど。泯さんは「場」を誰よりも認識しながらも「自意識」から完全に自由になり、こんな純粋に「自分の有り様」だけを追求している。
本当はもう身体なんて邪魔で、自分の身体を全部バラバラの粒子にしてこの場のすべての物と混ぜ合わせてしまいたいんだろうと感じる。

泯さんにその姿を突き付けられ、観客も最初の興味本位のような表情から少しずつ変化していく。この人はいったい何をしているんだろう。何を求めているんだろう。それぞれに自分の「興味」「想い」の中に、徐々に沈んでいく。

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若い時分にはもっと前衛的だった泯さん。全身の体毛を剃り落とし、全裸になり、ペニスにだけ布を巻く。その姿での「裸の踊り」。                        
東京湾に造成中の「夢の島」。海に大量に投げ込まれ陸となった、そのゴミの波打ち際で、仰向けの胎児のような格好で波に洗われる泯さん。パリ芸術祭の劇場で踊り、そのうち玄関や街中に出ていって踊った泯さん。

「俳優」をしている時の、あの人の世の悲喜こもごもを全て受け止め、包んでくれるような、包容力のある佇まい。それとは全く別の、人を寄せ付けない圧倒的な存在感。
お芝居の中にある「物語」を、むしろ拒絶する。それらの「言葉」で紡がれる前後のものを全て拒否し、ただ、その時、その場にある、ということを追い求めていく。
そんな「求道者」としての泯さんだった。

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映画の中で何か所目かの「場」に車で向かう途中。山間やトンネル、少し開けた山野を通る車窓からの風景を見ているうちに、目的地がどこなのか気づいた。すれ違う対向車が無機質なトラックばかり。福島だ。
そのうち、道端の少し開けた所には、山積みになったあの黒いビニール隗が見え始める。決して見慣れてはいけない風景。

この国は未だに「福島」をきちんと語る言葉を持っていないと思う。悲劇的な天災である東日本大震災の中にあって、「人災」の側面も大きく影を落とす「福島」は、特別な場だ。
ただ失ったものを補う「復興」を目指せばいいわけではない。こうなった原因は何なのか、なぜここに住む人たちにここまでの負をおわせることになったのか。自分たちは何をしてきたのか、そこをきちんと検証し認め、その上に立った「復興」でないと、この地は永遠に報われないし、傷は癒えないと思う。

人が立ち入れない立ち入り禁止区域。うち捨てられた廃屋たちの中で、泯さんは1匹の蜘蛛を見つけ、蜘蛛とその場のために踊る。
福島県田村町にある樹齢約400年の弁天桜。その圧倒的に咲き誇る傍に泯さんは立つ(それも踊り)。

それを見た瞬間、その場において、全ての調和はとれているように感じた。
「福島」の持つ悲劇も悲しみも、癒えるにはまだ程遠い。けどそれも全て飲み込んだ上で、今この瞬間、この世界には何一つ足りないものも余計なものもない。
そう泯さんが言ってくれているように感じた。

言葉にできないから「踊り」なのであって、否定も肯定もない、ただ在る、というだけ。
幾多の人々が織り成す大河のような、日々であり時間の流れ。絶えず流れ続けるそこに、瞬間的に垂直にピンを刺していく様な作業。
それを延々と続けてきてくれている泯さんの存在自体が、祈りのように思えた。

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「踊り」がおわった泯さんは、目の中にこちらを認識する光が戻り、「終わりました」と少し照れたように笑い「幸せだ」と呟く。虚脱したような、場に自分の質量の半分を分け与えてしまったような、その佇まい。
物理的にはずっとすぐそこにいたのだけど、「帰ってきてくれた」と少しほっとした。

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映画館を出るともう夕刻になっており、窓からは茜色の空とそれを飲み込もうとしていく闇が見えた。エレベーターで簡単に地上に降りる気になれず、8階から1階まで、階段でゆっくり降りた。ほぼ誰も使わない階段は所々薄暗がりをはらみ、それは泯さんがゆっくりと踊っていた、胎内の様なplan‐Bの闇にも思えた。

いつか泯さんの「踊り」を見に行きたい。求道者のような泯さんの息遣いを感じたい。
泯さんが自分の全てをバラバラにして溶け合わせるようなその「場」に中に、私も少しだけ混ぜ合わせてほしい。

私たちが生きているこの世界にも、ふと横を見ればいつも闇はあって、どこかで踊っている泯さんがいる。その事が自分の心の中に、ぼんやりとした、でも消えない灯りをくれる。

観た後で少し世界が違って見える。
そういう、とても貴重な映画体験でした。

https://happinet-phantom.com/unnameable-dance/#

2022.2.6

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