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父を想う

今から30年前、父が50歳の時。それまで大きな病気などした事がなかった父に癌が見つかった。腰痛がよくならないから、と受診した病院で発覚した。      膵臓原発の癌で、腹腔内に多数の転移あり。すでにステージⅣ。おさまらない腰痛は骨転移のためだった。
父・母と子供4人、それまで呑気に生きてきたわが家の日常はひっくり返り、突然の嵐の中に投げ込まれた。

突然な事に、みんな頭も気持ちも追いつかないまま、治療のためバタバタと入院した。けど「一応やりました」と申し訳程度に行った抗がん剤治療は効果がなかった。一縷の望みをかけて臨んだ開腹手術も、腹膜中に転移していてなすすべがないという理由ですぐに閉じられた。                       まさか。なんてこと。今の西洋医学では何一つうてる手はないと、闘いの初っ端でもう敗北宣言をされてしまったのだ。

父は金属の研究をしていた。口数が少なく穏やかな人で、怒鳴ったり強く怒られた記憶は全くない。いつも話をする時はまず相手の思いを聞き、それは私達子どもに対しても同じだった。
ロマンチストで格好つけしいだった。

母は薬剤師だ。これまで母なりに、人の病を治す事を自分の役割としてきた。その技術が、一番大切な人の病と死を目の前にして、何一つできる事がなかった。   手も足も出なかったのだ。


それから母は、ネットもそれほどない当時、民間医療や東洋医学を本や人づてで調べまくった。◯◯ワクチンや◯◯療法などを行なっている施設や研究所に必死で足を運んだ。「このキノコで治った人がいる」という話を聞けば、はるばる名古屋まで新幹線で買いに行った。  もちろん、これまでは信じる気すらなかったもの達だが、それにすがる他なかった。母はどんな手を使っても父を治したかった。父をこのまま、死を待つだけにするわけにはいかなかったのだ。

癌はおそろしく勤勉で、日々着実に、父の身体のシステムを壊していく。倦怠感が襲い、ものを食べられなくなり痩せていく。それを見ながら、私の頭の中では常に「どうしよう…どうしたらいい…」がぐるぐる回っていたたまれなかった。どうしようもなく焦っていた。  けど、私に出来る事なんて限られていた。
その時どんなに悩んで考えても、私は結局、ただ愚直に自分の今の役割に取組む事しかできなかった。    たいして真面目にやってもいなかった学校の勉強に、何かに追われる様に取り組んだ。遊びに行く気にもなれず、まっすぐ家に帰っては必死に家のことをした。母はずっと病院に泊まり込んでいたので、家は荒れていた。これまで母に任せっきりだった料理や洗濯、掃除などを兄弟みんなで必死でやった。不慣れな私達が作る料理はいつも不味かった。

学校と同方向な事もあり、病院には毎日足を運んだ。◯◯ワクチンを使わせてもらえるという理由で移った都心の民間病院は古くて4人部屋で、落ち着いて話せるプライバシーはなかった。
父は落ち着いている日もあれば、ひどくしんどそうな日もあった。行くといつも学校の事など何でもない会話をし、身体を少しさすり、数十分いてから帰った。

父ともっと深い話をしたい。父を支えたい。     切実にそう思った。                交通事故など突然の別れなら仕方ないけど、まだ私達には残された時間がある。              今どんな気持ちでいるの。どんなことを考えているの。聞きたい。父の言葉がほしい。           ベッドの周りにみんなを呼んで伝えてくれる様な何か。何を大切に思うとか、何を大切に生きてってくれとか。

けど悲しい事に、うちの家族はあまり感情を表に出せるタイプでなく、大人にもなりきっていない私たちは、これまでもそんな話をした事がなかったのだ。     プライバシーのない4人部屋で、しんどそうな父に、時に聞きたい事を不器用に投げてみても、うまくかみ合う時間は最期までもてなかった。焦りとどうしようもないもどかしさだけがのこった。

父の身体は、さらに壊れていく。腹部には大きく腹水が溜まり、両方の足はこれ以上ないくらい浮腫んだ。当時は今ほど、浮腫みや痛みのコントロールが出来なかったのだ。頼みの◯◯ワクチンを数回打ったが、何ら効果らしいものは出ていなかった。
父はそんな中でも飄々としており、「モルヒネの1日の量は決まってるから、どのタイミングで使うか考えてるんだ。打つと楽になるから、それが楽しみなんだよな」と言い少し笑った。

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毎日、父と少し話し、体をさすり、勉強と家の事をやった。結局、私にできたのはそれ位だった。ただそれしかできなかった。
どんなにつかもうとしても、大きく切れ込んだ指の間から流れ落ちていく砂を止められない様な、その日々の感触は今でもよく覚えている。

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どこかで覚悟していたその日は、思っていたより早く訪れた。癌とわかってから4ヶ月たった9月の早朝、病院にいる母から「父があぶない」と電話がきた。タクシーで病院まで飛ばすという発想もなかった田舎者の子ども達は、必死で最寄駅に走った。            まだ本数の少ない電車をじっと待っている時大きな太陽がのぼり、それをみて私は「ああ今、父は逝ってしまったんだな」と強く思った。             やっとの思いで病院についた時、父はもう冷たくなっていた。

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途方もない無力感を伴う喪失は、私の心にざっくりとした傷を残した。
普段は何事もなく生活していても、年に数回、何かのはずみで父の事を思うと、いつも私は途端にその当時に戻り「何もできなかった。何もできなかった。」と手放しで泣きたくなった。
胸の傷口は乾かず、そのたびにじわりと新しい血が滲んだ。父の死から5年たち10年たち、私も結婚し子どもを産み母親になってからも、それはずっと変わる事がなかった。
だってそう、父はもうそうやって逝ってしまい、それはどんなに泣こうが足掻こうが永遠に取り返しはつかないのだ。

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数年前、ふとしたきっかけで「もぐら会」というオンライン・オフラインサロンに入会し、主催者の紫原明子さんやメンバーの人たちと、他者と対話しながら自分の心や言葉を掘る事をさせてもらっていた。人や自分が「いる」事や生きていく事を考える様々な機会をもらった。そんな中、一冊の本に出会った。

エンド・オブ・ライフ
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在宅での終末期医療を行う診療所で取材をしていた、ノンフィクション作家の佐々涼子さん。その診療チームの一員である看護師の方に、末期の癌が発見される。その彼は佐々さんに自分を取材してほしいと依頼する。悲しみとプレッシャーに悩まされてながらも、彼とともに過ごす佐々さん。彼も悩み葛藤しながらも、自分の思うままに、家族と好きな事ややりたい事をして過ごしていた。残された「今」を生きていた。
最期の時が近づいてきた頃、佐々さんは「まとまった話は今まで聞いていないですよね。どうですか、話したい事はありますか?」と聞いた。すると彼は笑ってこう言った。「何を言ってんですか、佐々さん。さんざん見せてきたでしょう。」


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ああそうか。それでいいんだ。           父も見せてくれていたじゃないか。
私が「言葉」に固執し、「何も話し合えなかった、何も伝えてもらえなかった」と嘆いている間にも。
自分の無力さに囚われ、「何もできなかった」と泣いている間にも。
父は自分の生き方を、存在を、ちゃんと見せて残してくれていたじゃないか。

父は「いた」のだ。ずっといたのだ。
私が自分の喪失や悲しみに足をとられ、父と向き合えずにいる時も、気づかなかっただけでいつもいたのだ。
私が生まれてからずっと、父と暮らしてきた何でもない日々の生活の中に。そしてそれに続く最後の4ヶ月の中に。
そして、なんてことはない、ここにもいたじゃないか父。
私と父はとてもよく似ている。毎朝のぞく鏡の中に、父と同じ歳になった私の中に、父はいたのだ。     父がいた事が、今の私をつくっているのだから。

自分の悲しみに囚われたままいつまでたっても前に進めず、自分と同じ歳になってやっと、いつも「いた」事に気づいた阿保な娘に、父は穏やかに笑うだろうか。  何か一言二言、言ってくれるだろうか。
そして、何一つしてあげられなかったけど、私という娘が「いた」事で、父に何かを渡せていたのだろうか。


父のあの4ヶ月を想う。              ありとあらゆる、どんな手を使っても父を助けたかった母。その母の思いに寄り添い最期まで一緒に過ごした父。それがきっと、父のしたかった事なんだろう。
過酷と呼ぶにも程がある自分の運命に、取り乱すことなく静かに最期まで向き合っていた。
立派だったよな、父。がんばったよね、父。


父をきちんと思い出そう。父と過ごした日々を想おう。今なら優しい気持ちで父を想える。
そして私が生きている限り、また何度でもきっと、父に出逢う事ができる。

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最後に。私にこれを書かせ、父とまた出逢わせてくれた、もぐら会の場と皆さんに心から感謝いたします。


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