周囲の期待をことごとく蹴った女性の成したもの――佐藤亜紀『喜べ、幸いなる魂よ』書評

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 「○○ならこれぐらいのことはしてくれないと」――そんな周囲から期待される役割を担わないのは罪だろうか。佐藤亜紀『喜べ、幸いなる魂よ』のヤネケを知ると、むしろ個人に特定の役割を期待することこそが罪だと思うようになる。

 18世紀ベルギーのフランドル地方、10歳で亜麻糸商のファン・デール家に養子として迎えられたヤン・デ・ブルークが物語の主な視点人物だ。彼と共に育ったのが、一歳年下のファン・デール家の娘ヤネケとその双子の弟テオ。幼いうちから自然科学の分野で非凡な才を示したヤネケは、その旺盛な知的好奇心から、思春期になると度々“性の探求“にヤンを付き合わせ、歳若くして子供を身ごもる。ヤネケに対し真摯な愛を抱くヤンは、生まれた子を引き取ってヤネケと所帯を持ちたいと願うが、そんなヤンの思いをよそにヤネケは我が子を養子にやることに同意し、出産後は女性だけで自立して暮らす半修道会的集団「ベギン会」に入ってしまう。

 ヤネケはことごとく周囲の期待を裏切る。女性として、商家の娘として、有望な家柄の息子と結婚して子供を産むなど以ての外。実験的に繰り返した性交の結果、ヤンに芽生えた愛に応えることもなく、自分で産んだ子を育て上げようという義務感も覚えない。ベギン会でも模範的な存在ではなく、カトリックの教義や制度に異論を挟むこともしばしば。彼女が入会した理由はあくまで学問に没頭するためであり、家業が危機に晒されようと、父親が卒中で倒れようと、実家には戻らない。そんな彼女を人は「人でなし」と呼ぶ。

 ヤネケは真に利己的な人間だろうか。私はそう思わない。彼女は明晰な頭脳で理解しているのだ。実母の元でなくとも子は育つこと。ヤンたちの手で家業を切り盛りできること。自分がヤンの理想的な伴侶とならないこと。代わりに彼女は別の手段で周囲に貢献する。定期的に生家の帳簿を見て適切な助言をし、半身麻痺となった父には涙でなく一本の杖を与え、それにより父は自力で歩けるまで回復する。女性の名では論文を世に出せなかった時代、ヤネケはテオやヤンの名を使って研究成果を出版するが、ベギン会に集う子供たちを含め、公に惜しみなく知を分け与える姿に功名心など一縷も見えない。彼女は他者の立場を勘定に入れた上で、最短経路で最善策に辿り着くことができる。時にその答えが非情に見えようと、彼女に周囲を犠牲にする意図はない。ヤンも彼女の正しさを理解するからこそ、涙を飲んで他の女性と結婚する。

 ヤネケとは対照的に、ヤンは周囲の期待を背負って生きる。養父の望み通り家業を継ぎ、恋焦がれたわけでない相手と二度の結婚をし、多くの子供をもうけ、義父の後を継いで市長にまで上り詰める。器用で人当たりがよく、(ヤネケほど)強い我を持たない彼にとっては決して悪くない人生だったかもしれない。それでも成り行きで市長となり、公式行事の慣習として鉄の鎖をかけられたとき、彼は自分の責務を「重い」と感じ、行列の前を軽やかに歩くベギンたちに羨望の念を抱くのだ。

 異性を遠ざけ、自力で金銭を稼ぎ、信仰と共に慎ましい生活を送るベギンたちに対し、作中で一部の男性が執拗な中傷を加える。彼女らを女性器の隠語で呼んで嘲笑し、女性の責務を果たしていないと糾弾する彼らの用いる言説は、21世紀の日本にも蔓延っている。これが従来の男性像に捕らわれて不本意な生を歩み、女性の慰撫や賞賛なしには報われないと感じている彼らの痛みの表れだとすれば、何と傍迷惑なことだろうか。

 周囲の期待に自らを犠牲にした者は、つい他人にも同じ犠牲を強いがちになる。他人の生き方を許せないと感じるとき、是非本書を読んでほしい。自分の関心と適性を見極め、人の行かない道を選んだ女性が、周囲にどのような影響を与えたか。自分を大切にすることは他者を犠牲にすることではない――そんな主張すら理論武装しなければ通らない社会には「糞食らえ」と言ってやろう。

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