物語に立ちこめる身体の”臭い”|吉村萬壱『死者にこそふさわしいその場所』書評

 コンプレックス商材という言葉がある。薄毛、肥満、老化など、誰もが何かしら抱える劣等感を煽って販売される商品のことで、その広告は強烈なインパクトを持つ画像を伴う。

 ブルドッグのように弛み切った頬、鼻回りの毛穴からにゅるりと飛び出す角栓、脂ぎった地肌が透けて見える頭頂部、体幹に垂れ下がる凸凹した贅肉……本来は綿密に編集されたモデル・俳優の写真と比べるのが愚かしく、市井の人間は凡そ大差ない加齢を経て、老廃物を排出し生きているのだが、個人から特定の身体部位のみ切り取って拡大すると、その物質感につい「うっ」と息を呑む。

 時に人は自然のままの肉体の生々しさを耐えがたく感じる。その先にある死や腐敗の気配を恐れるのか、身体の物質性が如実に表れたとき、人は目を背けるか、翻って食い入るように見つめるか、いずれかの反応が起こるものだ。
 後者に似た酷薄な視線を吉村萬壱『死者にこそふさわしいその場所』の中に見た。六篇から成るこの連作短編集は、秋の祭りを控えた架空の町・折口山を舞台に、人々の野卑な身体を容赦なく露わにする。

 最初の物語は不倫カップルの愛憎を暴く『苦悩プレイ』。中年男の富岡兼吾から見た愛人・ゆき子の姿は、〈第七頸椎の骨の突起を中心に散在するニキビ痕〉が見苦しく、〈口を半開きにして下唇を前に突き出して俯〉く具合は〈シャワーヘッドにそっくり〉、擦れ違う男たちは〈誰一人として見向きも〉せず、〈外にいる時は痩せたコオロギのよう〉。そんな半ば侮蔑に近い感情を抱きながらも、〈どこか欲しくなる体〉と、中年を迎えて弛み始めたゆき子の肉体に執着する富岡の姿は倒錯的だ。

  60年間連れ添う夫婦の生活を描く『美しい二人』。主人公の浅野哲夫は冒頭で、妻・秋代の顔面が崩れ始めたことに気付く。大昔に豊頬のため注射したオルガノーゲンが原因で、〈鑿で押し込んだように両頬が陥没し〉、〈赤紫色に変色〉した秋代の顔は、取り返しのつかない老いを物語る。その一方で本作には己の美しい裸体を月下に晒したいという欲望を沸々とたぎらせる”若者”も登場し、老いさらばえる夫婦と”若者”との皮肉な対照が、身体に対する時の無情を顕著に示している。

  他にも、朝に弱いことで職場を解雇された主人公・高岡ミユが、元先輩の勧めで怪しい精神病院に掛かり、奇態な患者たちと不気味な一夜を共にする『絶起女と精神病苑エッキス』、熱心な〈キラスタ教〉信者で地区支部長の兼本歓が、教義の実践として支援するホームレスたちに虐待されながら、奉仕心という名のマゾヒスティックな悦楽に耽溺していく様を追う『カカリュードの泥溜り』と、ただならぬ業を感じさせる物語が続くが、いずれも執拗に描かれる身体の生理が、作品全体にむっとした生臭さを漂わせている。

  登場人物が自身の闇に嵌まり込む、前述の物語たちに比べると、本書中盤の『堆肥男』は少々趣を異にする。本作では会社員の青年・春日武雄の視点から、向かいのアパートに越してきた〈裸男〉の様子が語られるのだが、常に部屋を開け放ち、裸体のまま無為にその身を世界に晒す男の泰然とした姿が、潔癖な武雄に感銘を与えるという関係性はイノセントで、(食事中に思い出したくないショッキングなシーンがある割に)読後感は爽やかだ。

  以上、一癖も二癖もある人物たちが、表題作にして最終話の『死者にこそふさわしいその場所』にて結集する。日没後、祭りの熱気を厭うように暗がりに会した彼らは、互いに関わり合うのを避けながらも、擦れ違い、衝突して人知れず騒動を起こす。廃業した植物園という自然が人為を圧倒した地で、やがて死すべき身体である彼らがじたばたと足掻く様子は、グロテスクで滑稽だ。彼らを見ていると、目元の小皺など気にならなく――とはいかないのだが、正視に耐えない自身の醜い一面も、「どうせ死んで土に還る身なのだ」と吹っ切って開き直れるかもしれない。 

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