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神奈川校考査結果を受けて、東京校出陣までのメンタル

「ただの数字が特別になる」

その言葉の持つ意味が、子どもを持つようになってやっとわかった気がする。
子どもの生まれた日が今までの私の人生においてかつてないほど特別な日になった。
生まれて3か月、1歳、3歳、と子どもの成長を想うにつれてその歳の数が特別な数字に変わっていった。

私が40歳になったとき。
きっと子どもが居なかったら、40か、としんみりとした気持ちや親へ感謝の思いを馳せただけで終わっていただろう。

でも、子どもを持ってからは40なんてそれはそれは一大事のように祝ってもらったし、これほどまでに40年間生き抜くことの奇跡を感じられたことはなかった。

そしていま、私は「特別な意味を持つようになった数字」と対面している。

この一年はずっとそうだった。

そして今日26日と明日27日、普段ならただの月末としか感じないその日が特別な意味を持っている。

なぜなら神奈川県の小学校を受験したその結果が出る日だからだ。
自分自身は公立小・中学出身で特別なコネクションはない。
それなのに、「みんながとりあえず受ける国立小学校の近所だったから」という理由で小学校受験の沼に足を踏み入れたのが数年前。
そして今、国立どころか、もっと正解のない世界である私立小学校受験に挑んでいる。
東京の小学校を本命としていたが、神奈川校も練習になるからと言われるがままに受験したのだった。
当然ながら学校別講習も受けていないし、その学校の過去問に頻出している巧緻性はほぼ何もやっていない。正直言ってそこまで手が回らなかったのだ。
それなのに受験をして、いまその結果がどうか合格でありますようにと祈ってやまない。
今になってやっと自分勝手な話だと思える。

この1週間は毎日毎日心がざわついて仕方がなかった。
心の中に森山良子が居て、ザワワ…ザワワ…ザワワ…と歌う。
その横で阿佐ヶ谷姉妹のようにコーラスを歌うのが私の姿だ。

1校はオンライン発表、もう1校は郵送での通知だった。

私は人生で何度も何かに「落ちる」という経験をしている。

大学受験だって番号が張り出されたのを見たことは無いし、テレホンサービスで「その番号は不合格です」とはっきり音声ガイダンスに言われたことがある。

音声ガイダンスの間違いだろうと思って、テレクラにかけ続けるおっさんのように何回もかけまくったが、結局その女性(ガイダンス音声)が心変わりしてくれることは無かった。

オンライン発表なんて、何の間もなく一瞬で画面が切り替わる。

この時ほど「混線してなかなかアクセスできない時間があったらいいな」と思ったことはない。普段なら、あの画面でグルグルと回る感じにイライラするのに、それが今日は見たいと思うから不思議だ。

朝9時。

子どもを園に送ってからひとりで結果画面へアクセスした。

どうかご…そんなことを祈る時間もなく、画面には「誠に残念ながら」の文字が冷たく映った。

耳がキーンとして、胸に何か鋭利なものが突き刺さったような感覚があった。
ドキドキすることも、震えることもできない。
ただ時が止まったような静かな暗闇に突き落とされたような気持ちになった。

それから何時間経っただろう。

気が付くとリビングに戻ってきて、その学校の過去問をびりびりに破って捨てている自分がいた。

ネットでは過去問や問題集はメルカリで売れるからなるべく綺麗に使うと良いと書いてあったので、その通りにしていた。
でもいまはそんなことを忘れてしまって、ひたすらに破り捨てている自分が居た。

気が付くとお昼だった。

直前講習は考査の結果なんて関係なしに今日もある。
夏に不安が止まらなくなって東京の考査の2日前というギリギリまで詰め込んだのだった。
なんとかその手を止めて、園まで子どもを迎えに行く。

子どもに悟られてはならない。なぜか強くそう思った。

「おかえり。おうちに帰ってお教室行こうね。あと3回で終わりだよ」

「やったー!!」

子どもは10月に入ってから、お教室の授業があと何回で終わるのかを指折り数えていた。
それが残り5回を切った頃から、やっと解放される嬉しさと、今まで二人三脚で歩んできたこの生活が終わるという少しのさみしさと、終わったときにはどのような結果になっているのだろうという心配や恐怖のようなものと、形容できない気持ちが入り混じっていた。

それに加えて今日は1校がダメだったという気持ちがブルドーザーのように突然突っ込んできて、私の心を完全にかき乱した。

子どもに悟られてはならない。今にも倒れて泣き出しそうな背中を、その思いがぐっと押してくれて持ちこたえることができた。

翌日を迎えた。
今日はもう1校、郵送での発表だ。

いつもより早めに園に送り出し、朝から思い切り走って遊べる!と大喜びしている子どもに手を振って、家路についた。

洗濯物をしなくてはならない、掃除機もかけたい。

でもひとりでしんとした家にいると、またあの時のような時が止まった感じがよみがえってきて、耳が遠くなる。
ふと見ると、床にオセロが1つ落ちていた。
ちゃんと箱にいれなきゃ。1つコマが足りないとゴールできないよ。
誰に話しかけるでもなく、そう言って床のそのオセロに手を伸ばした瞬間に、ぐらりと膝から落ちた。

めまいがする。力がでない。そうだ、私昨日の昼から何にも食べていないんだっけ。

床に座り込んだまま茫然としていると、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。


郵送通知は合格だと分厚いらしい。

厚さでわかるから配達員さんによっては「おめでとうございます」と言って手渡してくれるらしい。Twitterで得た情報だ。
おそるおそるインターホンのカメラを見ると、配達員さんがいた。

笑顔…だろうか?分からない。

手元の荷物は…とりあえずなにか大量に持っている…!分厚い気がする…!

急いでドアを開けると、特段笑顔でもなく、おめでとうと言ってもらうこともなく淡々と荷物を受取った。
そこには1通のレターパックがあった。宛先はもちろん受験したあの小学校だ。
数日食事をしていない動物がエサにかぶりつくかのようにそれを乱暴に開ける。

中にはたった1枚の丁寧な通知が入っているだけだった。

またあの感じだ。耳がキーンと遠のいて、周りの景色が真っ暗になる。

そして、手が震えてきた。
2校の結果が出そろい、私はここでやっと初めて現実を受け止めたようだ。
普段仕事中の夫に電話をかけることなんて無かった私が初めて電話をかけた。

「あのね、結果がでてね・・・」

「落ちた」という言葉はどうしても使いたくなかった。それは今でもそれは嫌いだ。「落ちた」では、何かしらの上がるべき素晴らしい場所から転落したように感じるからだ。

そして何よりここまで頑張ってきた子どもに対してあまりにも失礼な言葉に感じるからだ。

精一杯の言葉で、ご縁が無かったことを伝えた。

夫は驚いていた。

でも、私も本当は驚いていたのかもしれない。あの耳が遠のく感じは驚いたパニックだったのだと今になって思う。

全てを伝えながら、子どもみたいにわんわん泣いた。

自分の受験や人生の節目で辛いことはそれなりに経験してきたけれど、こんなにもわんわんと、とめどなく泣いてしまうことはなかった。

自分のことなんか比べ物にならないくらい子どものことは辛く悲しいのだと初めて分かった。

電話を切ってから、自分の耳がぼーっとしていることに気が付いた。靄がかかっているようで、耳抜きをしても治まらない。


一呼吸してから他の郵送物も確認をした。

その中には返送されてきた国立小学校の受験票が入っていた。
開けてみると、これ以上ないくらい語呂が良い文字の羅列。
末広がりの8はあるし、ラッキー7だってついている。
このタイミングで語呂最高か、と思ったが、案外こんなことでもほっとするくらいまだ自分は元気が残っているのかもしれないと思えた。

そしてまた今日も直前講習だ。

「あと2回だよ」

「やったーーー!」

カウントが少なくなるに比例して子どもの歓喜の声が大きくなる。

ごめんね、今まで我慢させて。ごめんね、今まで頑張らせてしまって。ごめんね…縁を手繰り寄せられなかったことへの懺悔の気持ちに押し潰されそうになる。

家の前につくと、お隣の家のお婆さんが外に出ていた。

このお婆さんは最近認知症が進んでいる。
いわゆる「まだらぼけ」というものだろうか、私たちの存在を覚えていてくれているものの、記憶の一部が薄れているようだ。
それでも子どもに会うたびにしっかりと残る東北弁で「大きくなったねぇ」と驚いてくれるのが嬉しい。

でも今日は会いたくなかったな…と思い、そそくさと部屋に入ろうとしたところ「大きくなったねぇぇ!」といつものように声をかけてきてくれた。

本当は他人と目を合わせると涙が溢れてしまいそうなので、出来ないと思っていたのだが、何とか力を振り絞って返事をした。

「ありがとうございます。こんなに大きくなりました。もう5歳です」

「へぇぇ、5歳。じゃもう小学校いってるの?」

小学校というワードだけでもチクりと胸が痛い。

「いや、小学校は来年で。今は保育園に行っています」

「保育園?ってことは5歳かい?大きくなったぇぇぇ」

「ありがとうございます。大きくなりました。では…」

と言いかけたところで、

「じゃ小学校はどこに通っているんだい?青学かね?」

青学、という言葉にブハッと鼻がなりそうになった。
そうだった、お隣さんも、お向かいさんもお子さんたちは青学だったらしい。
まだぼけが進行する前に聞いて驚いたことを思い出した。

「いや、青学なんてそんな…行っていないですよ。まだ保育園です」

「そうかい。じゃ来年は青学に行くのかい?」

「いや小学校はまだ…」

どんどん傷口をえぐられる。でもその独特の東北弁だからか、全く嫌な気持ちがしない。こんな場面で東北弁への好感度があがった。
我が家は青学は受けてもいないし、その属性にないことくらいわかっているのだが、もし本気で青学を目指ざしていてご縁が無く、しかもその連絡を受けたのが今日だったら、と思っただけでクラクラした。

「そうかい。で、何歳になったんだい?」

「5歳に…」

毎回初耳かのようにそれはそれは驚きながら5歳ということを喜んでくれる。

ここから永遠に続くラリーの始まりの予感がする。
私が卓球少女の愛ちゃんだったら「サァーッ!」と雄たけびをあげてこの場から立ち去りたい。

「青学だね?この辺はみんな青学でね~」

まだ言うか、青学。
小受沼にハマった身になって初めて分かる「この辺はみんな青学でね」のパワーたるや。

ちなみに青学までは乗り継ぎが必要なので、この辺の人がみんな気軽に行ける距離ではない。ぽっと出のどフリー庶民には分からない何かがあるのだろう。

「そうですね、青学です」

次の瞬間驚きの発言が自分の口から飛び出した。
永遠に続く「青学婆さん」のラリーを続けること数分。突然の経歴詐称だ。

「そうかい、青学かい。青学の…あの青山かい?」

「そうですね、青山の青学です」

もう何でも来い。私は青学だ。
ただし青山学院とは言っていないのでせめてショーンKとは違う系統のホラッチョにしてほしい。

青学婆さんはそれで謎が解明されたようで、あっさりと去っていってしまった。

きっと夕方に婆さんに会ったらまた青学かと聞かれるだろう。

その時は一点の曇りもなく青学ですと答えよう。もう青学で良い、いや、青学が良い。私は決めたのだ。

こんなことで気持ちが晴れるから人間って不思議だ。まさかの青学婆さんに救われるとは思ってもみなかった。

その後お教室へ行ったが、さすがは神奈川校が出そろった日。

「ぼくねぇえっどねぇ〇〇小学校ねぇ受かったぁ」と、
在りし日の貴花田のように先生に報告している子がいた。

先生は「シー!」といって口にチャックするようなジェスチャーをする。
そして耳元で何かを囁いていた。
私の耳がまだ靄やかかったかのように聞こえにくくなっていった。

あたりを見回す。隣にいるこの人も、この人も、この部屋にいる皆さんはもうどこか1校は決まっているのだろう。

私みたいにどこも決まっていない人なんているのだろうか。

他人と比べないとあれほど自分に言い聞かせていたのに、いとも簡単にその約束を自分で破ってしまった。

その日から困ったことが起こった。夜泣きである。私の。

夜中に目が覚めては、11月1日まであと数日、ここから這い上がれるのだろうか、どうしたら笑顔で子どもと接することができるのだろうか、全部ご縁が無かったらどうしようか、そんなことが次から次へと頭に浮かんできて、涙と共に流れていく。

震えは止まらないし、10分刻みに夜泣きで起きる。

そのときの自分はメンタルが崩壊していると思うこともできなかったのだから、
本当に「心を病む」とは、改めて無自覚で抗うことすらできない、まさにこのような状態なのだろうと今になって思う。

子どもの夜泣きに悩まされていたその数年後、まさかセルフ夜泣きで目覚める日が来るとは思いもしなかった。

あと2日、あと1日。そしてあの学校は倍率〇倍。縁のなかった学校の〇%も倍率が高い。食べ物の賞味期限を見ても「この日は結果発表・・・」と考査に結びつける有様だ。私はまた数字に支配されていた。

数字のことを思い出すと、保育園まで歩きながら繋ぐ手の力がぐっと強くなってしまう。
その手から不安が零れて伝わってしまわないか心配になり、ふっと力を緩める。

時折不思議そうな顔をしてこちらを見つめる子ども。

ごめんね、と思わず声に出そうになるのをこらえた。
私に今できることはたった1つ。この不安が伝播しないように、私だけでもふざけていることだ。

青学婆さんにしてもらったように、よくわからないけど笑っちゃう、まいっかと思える、そんな時を作るのが私のできることだ。

また巡る季節が 新たな予感を連れて
目を閉じたままじゃわからない こんなにも世界は綺麗なのに
黒い感情 抑えられず 正義とすり替えてた
Get myself back again
傷つくために 生まれてきたんじゃない

安室奈美恵さんの歌が響く。

そうだよな、このまま「ダメだった」という黒い感情を引きずって
目を閉じていたままじゃわからない世界がある。

子どもは、私だって、傷つくために生まれてきたんじゃない。

大丈夫きっと全てはうまくいく。自分を取り戻そう。

前を向いていこうとか、前向きな気持ちで、とかいうけれど、それは今の私にはできない。
前ばかり見ていると不安になることだってあるのだ。
未来は誰も分からないし、思った通りにいくとは限らないからだ。

ならば私はとことん後ろを見たっていい。
子どもが生まれたあの日、私にとって特別な数字のあの日から見てきた景色を思い出しながら歩こう。

あの日から今日までの1日をゆっくり想いながら11月1日を迎えるのだ。

そう思えたら、やっと少しだけ元気が出てきた。

子どもに聞く。

「ねぇ、いまタピオカってはやっているの知ってる?」

「うん。みたことある。茶色い玉でしょ。」

「あれってさ、ママのおっぱいみたいじゃない?」

ぎゃはははと笑う子ども。
そう。それでいいのだ。

今までだって超えてこれたんだ
涙を拭いて これからじゃないか

「でもママのおっぱいは、タピオカの焦げたやつだよね」


一点の曇りもない澄んだ瞳でそういわれると、本当にそう思えてくる。
そうだ、きっとこれから先もそうなるようにできている。


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