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 大久保利通 ①

 大久保利通は、薩摩国に生まれた。
西郷隆盛は、三歳年上だが、幼少の頃から極めて親しい間柄だった。
 幼少時代の大久保は、学問は優秀だが、武芸は得意ではなかった。
 大久保も薩摩独特の、郷中教育(年長者が年下のものを指導していくもの)
を受け、精忠組(西郷を中心とした急進派若手グループ)の影響下にあり、
西郷らと切磋琢磨していた。
 だが、父の大久保利世が、疑獄に連座して島流しとなったことで、二十歳の利通も失職し、極貧生活になり、10年の
空白ができる。
 その後、復職し、大久保の活躍か始まる。開明的な藩主、島津斉彬に影響を受けた。
 脱藩計画などを企てるが、個人で動くよりも薩摩藩を動かしていったほうが、
国家のためになると悟り、藩主島津茂久の父で藩政の実権を握る、久光に接近。
久光の信頼を勝ち取る。
 寺田屋事件や生麦事件を経て、文久3年、大久保は藩重役へと異例の出頭を遂げる。
 久光は、大久保に藩の舵取りを託す。
重役のなかに小松帯刀がいて、
小松一大久保一西郷というチームが躍動し始める。
 慶応元年、幕府は、第二次長州征伐を布告する。入京した大久保は、幕府に
協力しない旨を伝え、水面下で長州藩との同盟を模索し、坂本龍馬の仲立ちで、薩長同盟が締結される。
 久光、松平春獄らと徳川慶喜など
五人の会議が開催されたが、慶喜と残る4人の見解は相違し、大久保、西郷は
失望し、武力討伐に傾いていく。
 慶喜は大政奉還をしたが、大政復古の大号令が下された。慶喜に辞官納地か
申し渡されるが慶喜と会津藩と桑名両藩が受け容れるわけがない。そこへ、薩摩藩の江戸藩邸を庄内藩が焼き討ちしたことで、戊辰戦争が勃発、一連の戦いに
勝利した薩長土三藩を中心にして、
明治新政府が樹立した。
 来週 大久保利通②へ続く〜


 

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