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 大久保利通 ②

 明治新政府の大久保利通。

 まず、明治政府は、天皇の下に、
日本国というものを作っていくことを、
目指した。
 具体的にいえば、庶民に自分は、
国民なんだぞ という意識を植え付けたかった。
 そのため、江戸時代まで、威張っていた武士というものを見直していった。

 江戸時代まで、藩 という小さな国が
割拠していた。その藩の藩主に、藩の土地と人民を朝廷に返しますという、版籍奉還をさせた。これは、スムーズに進んだ。今までの藩主に、知藩事というものに任命した。
 次に明治政府は、藩自体を潰してしまおうと考えた。さすがにこれは、ヘタをすれば、反乱が起きると予想した。
 この廃藩置県は、大久保は、全面的には賛成ではなく、木戸孝允、西郷隆盛を主導に行われ、東京に、薩摩を中心とする近衛兵を準備した。予想に反し、
何事も起こらなかった。
 この廃藩置県のすぐ後に、諸外国を歴訪する岩倉使節団の副使として、大久保は、参加する。大久保は、ビスマルク率いるプロイセンに感心を持った。
 ビスマルクの国力の充実こそ、国家の独立と国権伸長の礎であるという演説は、大久保に深い感銘を与えた。
 日本に帰った大久保は、征韓論争の
始末や台湾原住民による、沖縄の人民の殺戮のための清との交渉、不平のある武士による、萩、熊本、そして西郷隆盛が担がれた西南戦争を片付けながら、政府に、内務省を設置し、国力の充実を図るべく、殖産興業の種を撒いていく。
 牧畜や養蚕や、東北地方の可能性を
感じ、道路や港湾などを整備していく。
 また、熊本、鹿児島の戦災地の復興支援を大々的にいていき、地方の人民の
力を結集させようとした。
 内務省には、元幕臣などの有能な人物を多数集め、殖産興業の制度作りに、
尽力させた。

 西南戦争で、幼ななじみで、名コンビ
だった、西郷を亡くしたあと、
それを追うかのように、出勤中、不平分子に暗殺されてしまった。

 大久保利通は、日本という国の
骨格を作った人物である。
 こういう人を持ったのは、日本人にとって幸せであった。
 
 
 


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