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秀吉の小田原城攻め

 豊臣秀吉は、農民の子から、天下の兵馬を束ねる、最高権利者になった。

 その総仕上げは、北条氏政・氏直父子が、擁する小田原城攻めであった。
 
 この小田原城、あの上杉謙信・武田信玄も落とせなかった、天下の堅城であった。
 あの謙信、信玄が落とせなかったのだから、上方の猿が、なにする者ぞと思っていた節がある。そう思っても仕方がないかも知れない。

 しかし、豊臣秀吉は、全国の兵をこぞって、北条氏打倒に向けて動いた。
 陸からは、20数万の軍勢を向かわせ、掌握している水軍で、北条氏を海上封鎖し、兵の兵糧を大量に運んだ。
 秀吉は、日本軍の補給の思想の無さから、唯一、補給の思想の長けた人で、
この大軍勢がどれだけ、兵糧が必要かを
常に計算し、陸上、海上からガンガン
兵糧を送った。
 無尽蔵といえるくらいの兵の多さと、
兵糧の補給は、上杉謙信と武田信玄との
戦とは、理由が違った。
 我が多摩地方の北条氏の八王子城が、
見せしめのために、豊臣秀吉としては、
珍しく、力攻めをして、八王子城の老若男女を皆殺しにした。
 そのため、いまでも、八王子城址は、
幽霊が出ると噂されている。
 北条氏の山中城、八王子城の力攻めを
見せつけ、小田原城の態度を決めさせ、
仕上げに、小田原城へ、秀吉は黒田官兵衛を使者に送り込み、開城させた。

 ここに、秀吉の事実上の全国制覇は、
完成された。


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