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音楽制作業 OFFICE HIGUCHI 10周年までの道のり#10 〜三年目に訪れた出会いと別れと変革と〜

お世話になっております。代表の樋口太陽です。

2013年に入社した大西くんとは、常に仕事をともにし、自分の持てる全てを伝えるつもりで接しました。

クライアントワークの音楽制作なんて簡単だ。まず、曲をつくる。自分でそれを聴いて、クライアントなり、ディレクターなり、エンジニアなり、視聴者なり、他者の視点になり、欠点を見つける。見つけたら、それをブラッシュアップする。それを、何度も繰り返せばクオリティが上がる。よくなるまでやめなければ、必ずよいものができる。めちゃくちゃ簡単なことだ。

こういった信念で、さまざまな案件を、大西くんとともに体感しました。田舎育ちの僕らには笑えるぐらい大きなビルに打ち合わせに行ったり、阿佐ヶ谷のオフィスで延々と二人で作業したり、レコーディングスタジオに出かけたり、1年間をともに過ごしました。

大西くんは、たいへん頑張ってくれました。しかし、少しの経験とノウハウさえあれば簡単にこなせると信じていたクライアントワークの音楽制作でしたが、それは違いました。いまでははっきりと言えますが、クライアントワークの音楽制作という分野は、おそろしく難易度の高いものです。当時の僕はそれをあまり理解せず、大西くんに、作編曲、ミックス、演奏、セルフプロデュースなど、全ての領域でのスキルアップを求めてしまいました。
 
一年間の経験を積んで、その後を考えた大西くんは、この広告音楽の世界ではなく違う道で生きていくことを選びました。

自分のアウトプットを他者視点で見つめつつ、ブラッシュアップしていく。それがいかに難しいことなのか。音楽制作だけの話ではありません。ここで、15世紀フランスの詩人、フランソワ・ヴィヨンの詩をご紹介します。

牛乳の中にいる蝿、その白黒はよくわかる、
どんな人かは、着ているものでわかる、
天気が良いか悪いかもわかる、
林檎の木を見ればどんな林檎だかわかる、
樹脂を見れば木がわかる、
皆がみな同じであれば、よくわかる、
働き者か怠け者かもわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。

※「軽口のバラード」より抜粋

きっと、人間にはずっとつきまとうテーマなのでしょう。

もうひとつ、事件がありました。地元、田川の音楽仲間、木村亮一くんが東京に遊びにきた時のことです。

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※写真中央が木村亮一くん、その右が兄です。

木村亮一くんの事を話せば長くなりすぎるのですが、端的に言えば、兄の高校の同級生です。ものすごく樋口兄弟と縁が深い、とだけ言っておきます。音楽の話も、お笑いの話も、兄とは密にできるような仲です。亮一くんと兄は、阿佐ヶ谷のリビングでなにやら真剣に話していました。

それは兄が「もっとお笑いに本気だしたい。音楽制作の仕事はセーブしたい、できれば辞めたい」という内容でした。社長である兄の、実質、会社辞めたい宣言です。しかし、驚くことではありません。会社を設立した時からずっと兄が言っていたことがあります。

「音楽の仕事は、辞めたくなったらいつでも辞める可能性あるから、そこんとこヨロシク」

実は、その条件つきで、二人で会社を設立しました。兄は、いつでも音楽でない道を選ぶ選択肢があったのです。ちなみに兄はお笑いの方では売れていない若手芸人。お笑いでの収入はほぼないに等しく、むしろネタ合わせやライブ活動などで、赤字状態です。音楽制作会社の社長としては調子よい状態なのに、なぜそういう考えになるのか。

兄は2012年に、大病を患いました。髄膜炎という病気です。

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詳しい原因は不明なのですが、おそらくハードに働きすぎた不摂生がたたった結果です。一歩間違えば命も・・・レベルの、かなりやばい症状が出てしまい、その後も数年間、顔面麻痺の後遺症が残りました。もともと色んな分野に興味があるという性質に加えて、この病気の経験もあり、兄は「音楽でしっかり食えているならじゅうぶんじゃないか」というような価値観では動いていませんでした。今の生活を維持していくことよりも、後悔のないように生きるという事に重きを置いているのです。

というわけで、兄が本当にお笑いに本気を出したいのならば受け入れるしかありません。しかし、せっかく兄弟でつくった会社を存続させたい僕としてはかなり頭を悩ませる話です。兄がそのスタンスであれば、少なくとも社長は続けれないだろう。いますぐ音楽の仕事を辞めるというわけではないだろうが、ここは一旦、副社長である自分と、社長業を交代するしかないのか・・・。

考えながら、一人で電車に乗っていました。そこで、何の気なしにスマホでビジネス系の記事を読んでいた僕に、ある単語が目に入りました。

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「会長」これはいい言葉だ。そうだ、兄に会長になってもらおう。

社会人経験のほとんどない僕は、会長というものがはたしてなんなのか、まったく知りません。「すごいえらい人」みたいな印象しかありません。はたして、この設立して間もない会社の小さい規模で、兄は会長になれるのか。いちおう詳しく調べると、社長と会長というものには何かはっきりとした線引きがあるわけではなく、僕が取締役から代表取締役として登記しなおせば、どちらが社長 or 会長を名乗っても、特に問題がない事がわかりました。

兄が会長で、僕が社長。そして、その場に居合わせた亮一くんにはプロデューサーとして入ってもらおう。

誰にとっても、突拍子もない話です。しかし、僕にはいける予感がしました。

兄にとって、まず会長という言葉の響きが面白いはずだ。社長兼芸人よりも、会長兼芸人の方がレアだし、オイシイだろう。それに古くからの友達である亮一くんが入れば、テンションが上がって音楽の仕事を続けれるはずだ。

木村亮一くんは、お父さんがプロミュージシャンの音楽一家の育ち。高校の時からずっとバンドを続け、常に音楽には感度高く触れている、僕らにとって音楽の申し子のような存在。東京で音楽の仕事をやる機会があれば、きっとやりたがるに違いないだろう。

そして対外的にも、単純に兄と立場を交代するよりも、こういう新体制に見せた方がポジティブに受け入れられるはずだ。そして、今までの音楽作家だけの集まりというイメージよりも、プロデューサーが入った方がチームとしてアピールできる。しかも、亮一くんはルックスもよく、タッパもある。音楽プロデューサーには、ぴったりだ。

誰にとってもベストな案じゃないか。僕はそう信じつつ、それぞれにこの計画を話しました。

兄の返事は・・・
「いいよ〜」
でした。あっけなくひとつクリアです。

亮一くんの方は・・・
改めて補足しておきますが、彼は、あくまでその時、東京に遊びにきてうちに寄っただけ。寝耳に水な話です。彼は地元の田川で、看護の仕事をしていました。上京して音楽プロデューサーとして生きていくとなれば、今の生活を捨てることになります。興味のある話ではあるが、即決はできないという雰囲気でした。しかし僕たち兄弟の猛プッシュにより、ついに亮一くんは、上京することになりました。

もう一人、この時期にジョインした人物がいます。大西くんが辞めた今、後継者を募集しなければ。僕はFacebookで音楽作家の募集をして、応募してくださった数人の中から面接を経て、決定しました。

その男の名は・・・山本"ぶち"真勇です。

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※2014年ころの、ぶちです。

なんと彼とは、その後に兄よりも長く仕事のパートナーになることになりますが、当時の自分は知る由もありません。

最後にもう一人、妻、ちひろを取締役に迎えることになりました。

2014年の春。こうして様々な出来事が同時期に起こり、会社は新たな局面を迎えていくのです。


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