どんぐりはたからもの

先日聞いた話だが、知人の友人の娘さんが3歳になるということで、七五三を祝ったそうだ。
直接面識のない見ず知らずの子供の成長でも、話を聞くと顔が綻んでしまう。人間に限らず、生き物が子供から大人へと成長していく過程は不思議なエネルギーを持っている。




その娘はトトロが好きで、どんぐりが落ちていると拾っては「トトロがいるかも。」と言うらしい。
七五三を祝っている間もどんぐり探しをやめなかったのだとか。

きっと心からトトロの存在を信じているのであろう。そういえばいつしか経験というものが、警戒心や猜疑心を生んで、これは存在しないとか、これは間違っているとか、自然と判断をするようになった。
生きていく上で当たり前の事だ。生きる時間が増えれば経験が増えていく。その経験を使って何かを克服したり乗り越えたりして、人は成長していくのだから。




しかしふとその「トトロがいる」という純粋な選択肢に触れたとき、そんな選択肢が自分から抜け落ちているという事に気がつく。その選択、というか、選択の余地がなく信じられる気持は、経験を持たない子供たちだけが持ちうる特権なのかもしれない。





後日紅葉を見にある公園に行ったとき、どんぐりが沢山落ちているのをみつけた。
トトロの話を思い出してどんぐりを拾ったら、小さい頃の思い出が頭に浮かび上がってきた。沢山拾って家に持ち帰り、その頭に爪楊枝を刺して、どんぐりごまをつくっていたな。たまに昆虫の幼虫が入っていて、割れた身から出てきたそれをみてびっくりしたものだった。

そんな事を考えながら手に持っていたどんぐりを見ていたら、たちまち美しく光っているように感じだした。よく見るとどんぐりの身には縦の繊維が走っていて、太陽の光が照りつけると、その繊維の筋が美しく光を反射していた。
恥ずかしながら、一瞬だけ、どんぐりがたからもの(宝石)みたいだという考えが頭をよぎった。もしかしたらその瞬間だけ、トトロが僕の世界に存在したかもしれない、なんて。



僕はここまで生きてきた事を誇りに思っているし、経験してきた事はみな今に活きていると考えている。しかし無くしてしまった選択肢を思い出して、それがもう選択できなくても、存在しているという事は絶対に忘れてはならないという気がした。
どんなに時間が経って経験が積み重ねられても、その純粋な選択肢を疑いなく選ぶ子供達の気持ちを分からなくなりたくはないものだ。

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