教員生活38年を振り返って①

 2020(令和2)年3月31日に定年による退職の辞令が交付されました。
 この機会に、38年間の教員生活を振り返ってみたいと思います。振り返りに当たっては、私の勤務した自治体(都道府県レベル)の教育委員会が作成した「教員等の資質能力の向上に関する指標」に示されているキャリアステージに沿うこととします。キャリアステージは0から4まであります。したがって、5回に分けて書く予定です。

 さて、指標にはステージ0(着任時)の基本的資質能力として、次の記載があります。
○教育的愛情と使命感・情熱を持っている。
○教職生涯にわたって健康を維持できる心身のたくましさがある。
○社会人として必要なモラルや常識を身に付けている。
○円滑なコミュニケーションができ、良好な人間関係を築くことができる。
○求められる教員像を理解し、それに向かって自己を省察し、常に学び続けようとしている。
○基本的な事務処理能力がある。

 では、私の着任時はというと。
 率直に言って、38年前が今日の教員を取り巻く状況だったら、退職を迫られていたかもしれないと思います。上記の基本的資質能力でいうと、特に「教育的愛情と使命感・情熱」、「社会人として必要なモラルや常識」に欠けていたと思います。
 今あらためて、教員を志望した理由を思い返してみると、高等学校時代の印象からネクタイをしなくてもよい、朝は自分の授業に間に合えばよいというものです。また公務員として安定しているので親の理解も得られるだろう、さらに部活動の指導でスポーツにかかわることができるというものです。何と消極的な動機なのでしょう。
 ですから、希望の校種は高等学校です。またそれには、高等学校なら道徳の指導をしなくてもよいという理由もあります。そして、教育実習は母校の高等学校で行い、当然、生徒からはちやほやされ教員への手応えを感じてしまったのです。
 採用試験は、高等学校社会科の採用人数が少なかったので、中学校社会科に応募しました。
 教育実習後、大学に戻り採用試験までの約1か月を試験対策に勤しんだかというとそうではありません。試験の1週間前には友人と海水浴に行ったことを覚えています。教育実習で感じた手応えを実現させる生活にはなっていません。当然、試験の結果は不合格です。
 その結果を受けて、来年の採用試験は必ず合格すると決意し、友人が就職活動のために帰省した後期は、図書館にこもったり通信添削を行ったりして、人生で最も勉強したと言っていいくらい勉強しました。そして、年明けの1月には教育委員会に講師採用の登録を行いました。

 大学の卒業式の直前に教育委員会から電話があり、面接と小論文試験を受けました。これが、講師の試験かと思ったら、正規採用に向けてのいわゆる二次試験だったのです。このとき、複数の受験者があり、私の他に少なくとも一人の合格者がいました。当時の状況から想像すると、校内暴力等による急な退職者があったのだと思います。

 こうして私は、十分な資質能力を身に付けないまま大学卒業と同時に中学校に勤務することになりました。

 勤務校は、荒れた学校を覚悟していたのですが、へき地の全校生徒31名の小規模校でした。校内暴力など皆無の学校です。ちなみに、先ほど言った私の他に少なくとも一人の合格者も、隣町の穏やかな学校でした。
 私の担当教科は、2・3年の社会科と全学年の保健体育科(実技はT2として、保健は一人で)でした。部活動は男子バレーボール部、分掌は障害児教育主任でした。障害児教育主任としては、市の取組として養護学校の視察に行った記憶がうっすらありますが、校内でその任務を果たすことはなかったというか、果たすことができませんでした。
 教員の年齢層の高い小規模校に初任者が二人配置(国語科教諭と私)されたので、生徒はもちろんのこと保護者や地域の方から大歓迎を受けました。私は地元出身ではなかったので、学校近くの教職員住宅を生徒が掃除して待っていてくれました。しかし、その住宅は風呂も壊れていたためその期待に応えられず、市街地にアパートを借りました。

 こうして、採用と同時に私にとっては楽しい楽しい教員生活がスタートしました。1982(昭和57)年4月のことです。

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