第13章 ブロードウェイとウフール・ダンス・バンドのスタン・プランジ / 前編

スタン・プランジ(=Stan Plange)は、アクラ生まれのミュージシャンで、長年にわたりダンスバンドでギターを弾いてきた。

1950年代後半に、彼はダウンビーツ、コメッツ、およびスターゲイザーズ・ダンス・バンドなどで活動し、1958年から1961年の間は、ナイジェリアのミュージシャン組合の会計係でもあった。

1961年に彼はブロードウェイ・ダンス・バンドに加入し、1964年にそのバンドはウーフル・ダンス・バンドと改名することとなる。

彼は1965年にウフールのリーダーとなり、何度も海外をツアーし、レコーディングを行った後、1972年にブラック・スター・ライン・ダンス・バンドを率いるためにウフールを去った。

1973年には「F」プロモーションズ(=「F」Promotions)のファイサル・ヘルワニと提携し、オビニニのレコード会社を立ち上げ、ヘッゾレ・サウンズ、バサ・バサ、そしてブンズ・サウンズのレコード制作を手がけた。

以下は1977年2月15日にナポレオン・クラブで、スタン・プランジにインタビューしたものである。

ーー あなたが幼い頃のことについて教えていただけますか。

プランジ(以下、P) 私は1937年4月にアクラで生まれた。ガ族(Ga)で、私の家族はもともとエルミナ(=Elmina/ガーナ南部に位置する港湾都市)から来たんだ。

アチモタ(=Achimota/ガーナのアクラ首都圏の地区、アクラ首都圏の町)の小学校の聖歌隊にいたんだけど、歌の練習がある度に逃げようとしていたから、特にそれの影響で音楽に興味を持ったわけではなかった。私たちの歌の先生は、私が良いテナー歌手であるって常々褒めてくれてたから、私がいないとすぐにバレてしまっていた。

その後、ウィネバ(=Winneba/南ガーナ中部地方のエフトゥ市地区の首都)のガーナ大学付属の中学校に通ってたときに、音楽をまたやり始めたんだ。

ーー学校での音楽が好きではなかったのに、その後、何があなたを変えたんですか?

P 一つは、父がアクラ・オーケストラのトランペット奏者だったこと。

でも、もっと重要だったのは、私たちがアダブラカ(=Adabraka/アクラ首都圏、ガーナの大アクラ地方の地区の町)で、ロジャー・シネマの向かい側にあったキット・キャット・クラブの近くに住んでた時、リズム・エースって言うグループを観たことだった。

私たちは壁の向こう側の外に出て立っていたんだけど、「ワオ!楽器が上手くなりたい!」って言う衝動へと私を突き動かしたのは、間違いなく彼らだった。

スパイク・アニャコルがリーダーで、ナイジェリア人のジール・オニアとベイビーフェイス・ポールがいた。レイ・エリスはピアノ、グレン・コフィがトロンボーン、アグリイはギター、そしてジミー・ウィー・シャルがダブル・ベースだった。ホットショッツ・ダンス・バンドから来ていた、フレデイ・テッティ(後にザ・コンチネンタルズ)と、バディ・スクワイア(後にエデン・チャーチ・バンド)以外は、すべてテンポスから来ていた。

リズム・エースは、テンポスやジョー・ケリー・バンド、レッド・スポッツ、そしてホットショッツと比べると、ユニークなサウンドを鳴らしていた。当時は、彼らが本当に最高で、自分のバンドであるダウンビーツに没頭する為の大きな影響を与えてくれた。だから、一生懸命楽器の練習をしたんだけど、あんまり上手くはできなかったね。

ーーダウンビーツはあなたの最初のバンドですか?

 そう。私は1957年に彼らと合流したんだけど、実際には何もしてなかった。それまでに学校を卒業して、ガーナ銀行でしばらく働いていた。ダウンビーツはビル・フライデーが率いてた。- 彼はもう亡くなってしまったけど- 彼はボビー・ベンソンのバンドの出身でイボ族(=Ibo)だった。私は少し(ダブル)ベースとコンガを演奏することを学んでから、ベースを選んだ。

残念ながら、アキム・オダ(=Akim Oda/アクラとクマシの間ぐらいにある都市)にあったプレミア・ホテルでの私の最初の演奏の2日前に、エディ・クアンサーがクマシ(=Kumasi/アクラより北西に位置するガーナ第二の内陸の都市)からやって来てプレイすることになったので、私は弾けなかった。

その後、私たちがアクラに戻ると、エディは何かの用事があるのでクマシに行くつもりだと言った。そして、彼は戻ってこなかった。だから、私はベースに戻って、1年間それをプレイしたんだ。

それから私達のギタリストであるオケレがバンドを去った。それで、現在はロンドンにいるオスカー・モアが加入した。私たちは週末にロメ(=Lome/ガーナの隣国であるトーゴの首都で、ガーナとの国境に位置する)で雇われてプレイしていた。しかし、プロモーターが私達にとどまるように頼んだ後、オスカーはガーナに戻らなければならなかったので、私は今度はギターを手に入れなければならなかった。でも当時、トーゴにはバンドが存在してなかったから、トーゴランド全体を探さなければならなかったのさ。

ーーガーナに戻って来てからは、何がありましたか?

P ダウンビーツを去り、ティップ・トゥー(=Tip-Toe/当時ガーナにあったナイトクラブ)で結成された新しいグループに加入した。それはザ・コメッツと呼ばれていて、レイカーズの2番目からレジデント・バンドになった。

コメッツはレイ・エリスが結成したバンドで、彼がピアニストでリーダーだった。私はギター、トランペットにプリンス・ボアテング(後にナショナル・オーケストラとザ・コンチネンタルズ)、アルト・サックスにレックス・キング、そしてトロンボーンにはアドリブ・ヤング・アニム(後にスターゲイザーズを経てウフール)、ドラムはトム・プライスだった。

でも、わずか3ヵ月後にバンドは崩壊した。私たち全員がレイ・エリスに責任があると考えた。それで私たちの残りのメンバーは、今度はゼニスと呼ばれるバンドを結成した。アクラのクワフ組合が、アニマが率いたクワフ・ユニオン・オーケストラの為に資金提供したんだけど、そのバンドは解散しちゃって楽器だけが残っていた – それを私たちが使うことにしたんだ。

ゼニスを結成した後、私たちはバンドをリードするのに熟しているとは思えなかったから、リーダーを探した。

ヴェンダープージ(彼は現在ロンドンにいて、エディ・クアンサーやジョニー・ナッシュと一緒にプレイしている)とも会ったけど、彼はリードする準備ができていなかった。ジョージ・リー(同世代のダンスバンドであるメッセンジャーズのリーダー)にも会ったが、 同じだった。

それで、我々は戻って、再びレイ・エリスに電話するしかなくなっちまったんだ。で、結局3か月後にはまた、バンドは崩壊した。

それから私たち全員は、プレイする為にクマシのウィルベン・ホテルに向かって、スターゲイザーズ(=初期はスターゲイザーズ・オブ・クマシ。後にスターゲイザーズ・ダンス・バンド)に加わることになったんだ。

オリジナルのリーダーはグレン・コフィだったけど、途中でいなくなってエディ・クアンサーが引き継いだ。



それと同じ年のことだった。ビル・フライデーがラゴスに戻ってて、ラゴスでダウンビーツをやるって言うので、再び参加するために出発したんだ。そして、1961年まではラゴスにいた。

最初はナッズ・クラブ・ド・パリというクラブでプレイしてたんだけど、待遇があんまり良くなかったので、ラゴスのアンバサダー・ホテルに行って、そこで2年半プレイした。

私たちはハイライフをプレイした。グループには4人のナイジェリア人しかいなくて、残りはガーナ人だけ。後になって、ナイジェリア人の一人が去り、ガーナ人のトロンボーン奏者のピート・クウェンテイ(後にアームド・フォース・バンド)に置き換えられた。

ラゴスにいたとき、ギタリストとアレンジャーとしてナイジェリア・ブロードキャスティング・オーケストラでもプレイしたよ。

ーー当時のナイジェリアの状況について、もう少し教えてください。

 ナイジェリアの音楽シーンは非常に低調だった。ホーン奏者を除けば、ナイジェリアのミュージシャンはあまり良くなかった。ギタリストは皆無だったよ。

当時ジュジュ(=Juju)はあんまり流行ってなくてね。誰もジュジュは聴きたがらなかったみたいだから、アングラなとこで演奏させられてた。

ハイライフは当時最もポピュラーな音楽で、最もポピュラーなバンドはE.C.アリンゼと彼のエンパイア・オーケストラだった。

ダウンビーツでは、私はアレンジャーでありセカンドリーダー。ジョー・メンサーはシンガー、ジョージ・アミサーはアルト・サックスで、ナット・ハモンドか、またはリー・アンプーマーがボンゴ、アクウェイ(アダ名はアイ・ゼロ)がコンガで参加してた。

途中で、ジョー・メンサーとジョージ・アミサーは休暇を取り、タコラディにあるゼニス・ホテルのオーナー達によって運営され、サミー・オボットがリーダーをやってたブロードウェイ・ダンス・バンドに加入しちゃって、戻って来なかった。

当時、今は亡きクワメ・ンクルマ(ガーナの初代大統領)と一緒にツアーしていたブロードウェイは、ガーナのナショナル・バンドと見なされていて、ガーナ航空が出来ると、ハルツーム(=Khartoum/スーダンの首都)やベイルート(=Beirut/レバノンの首都)などにもツアーに行っていた。だから、ナイジェリアではなくガーナに戻ったほうが、良いチャンスがあるんじゃないかって、私たちは考え始めた。

幸いなことに、スターゲイザーズは現在のクマシ・ヤングスターズ・クラブの会長、および木材業者のコリンズ・クシ(またの名をD.K.C)によって改革されていた。私はアドリブ・ヤング・アニムのリーダーシップの下でプレイした。

スターゲイザーズからは、1964年か1965年頃に、タコラディのブロードウェイに加わるために去った。

ーーー後編に続く



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