第1章 クワ・メンサーと”サム”: パームワイン・ギターの偉大なるオールド・マンたち

パームワイン・ギター・ミュージックの”グランド・オールド・マン”は、ファンテ族のミュージシャン、故・クワ・メンサー(=Kwaa Mensah)である。

彼は、アフリカン・ブラザーズ・バンドのような、完全に電化されたギターバンドとは対照的に、アコースティック・ギター、巨大なベース、ハンド・ピアノ、クリップ、および、ローカライズなハンド・ドラムを使用したパームワイン・タイプのハイライフをプレイする有名なマスターだった。そのため、彼はハイライフの中でも最もトラディショナルなプレイをしていた。

彼の叔父は、ガーナで最初のハイライフ・ギタリスト、オリジナル”サム”である。 ジェイコブ・”サム”(=Jacob Sam)、または、ケープ・コーストの"金細工師"とも呼ばれたクワメ・アサレ(=Kwame Asare)は、リベリアの船員からギターを教えてもらった。事実、1928年にZonophoneのレコーディングのためにイギリスに行ったとき、最初にハイライフの音源をリリースしたのはサムだった。

サムはクワにギターを教え、1930年代には、クワはケープ・コースト・アダハ・バンド(=Cape Coast Adaha Band)で演奏した。その後、1940年代、クワはコンコマ・グループ(=Konkoma Group)に加わる。コンコマ・グループは、当時の人気のハイライフ・スタイルで、ファンシー・ドレスを着用して行われる複雑なドリルのようなダンスが特徴的だった。

そして最後に、1950年にクワは独自のギターバンドを結成し、1952年にH.M.Vから最初のシングルをカットした。その時点で、彼はレコーディングされたナンバーごとに£5の現金を受け取った。1955年、クワはE.K.ニアメの例に従いバンドのレパートリーにコミックオペラを追加し、クワ自身は女性役を演じた。彼は自分のグループをザ・ファンテ・トリオ(=The Fanti Trio)と名付け、60年代前半までに200枚のレコードをリリースし、西洋化されていない地方のファンに人気を博した。

長い間クワの音楽は、より洗練されたアフリカ人、特に1971年にアクラのブラック・スター・スクエアで行われた『Soul to Soul』コンサートで彼を見て驚いた若いポップファンなどによって、あまりにも”ブッシュ”と見なされていた。

一部の批評家は、クワの音楽はとても古く、彼は死んでいるに違いないと思っていた!

幸いなことに、1972年にウロメイ(=Wulomei)が成功したことで、生まれた古いスタイルのハイライフへの新たな関心により、クワは若者の間でさえもカムバックを果たした。1975年、クワはガーナのAmbassador RecordsでLPのレコーディングを行い、ウロメイと共に1か月半の米国ツアーを行った。

以下は、1975年11月25日、アクラのジェームズタウンにあるテンプル・ハウスでの、クワとのインタビューである。

ーーあなたは1920年9月にラゴスで生まれ、ケープ・コーストで育ちました。どのようにしてギターを弾くようになったのですか?

クワ:スタンダード5(日本で言う中学卒業ぐらい)に達したとき、父と母が問題を抱えていたので、それが原因でケープ・コーストのエレメンタリー・スクールに通えなくなったんだ。私はもともと大工もしていたので、仕事を見つけるためにダンクワ近くのブブアソ鉱山に行ってみた。しかし、そこに大工の仕事は何もなかったので、ラインカッター(測量士のために茂みの線を切る仕事)として測量部門に行くことになった。

私がそこにいたとき、義理の兄弟の一人、コフィ・アゼイ(=Kofi Adzei)と会った。彼はギタリストで、演奏方法を教えてくれた。それが1937年のことだったかな。

その後、母がケープ・コーストに連れて行ってくれた時に、アンクル・サムに会ったんだ。戦争中は、ケープ・コースト、クマシ、アクラで兵士たちを楽しませていた。兵士と陸軍士官のために音楽とパントマイムを作ったんだよ。私は歌手と兼任してクリップ・プレーヤーであり、彼はギターを演奏し、歌を唄い、衣装を変えた。時にはシエラレオネの女性として、時にはアシャンティの女性として着飾っていたんだ。

ーーアンクル・サム(1903年生まれ)について詳しく教えてください。

K:サムの父親は、ケープ・コーストで大工道具を売っていた店主だった。彼の父親はコンサルティーナ(=蛇腹楽器の一種)を演奏し、サムが非常に小さかったとき、クリップを演奏させるために肩に乗せていた。彼の父は、フルート、ファイフ(=ピッコロに似たリコーダーの様な楽器)、ブラスバンドの音楽であるアダハと、オピム(=Opim)、またはオーフガ(=Ohugua)を演奏した(これは、今日では”ブルース”と呼ばれるアダハに似たゴングのリズムで、8分の6拍子で演奏されるアカンのハイライフ)。オピムはコンサルティーナが特別な音楽だった(つまり、この楽器で演奏される”ブルース”である)。

彼らが演奏したもう一つのリズムは、ミュージック・ソー(=刃の付いてない西洋鋸に似た体鳴楽器)で演奏されたハイライフのアシコ(=Ashiko)だった。アシコ・バンドは、アコーディオン、またはコンサーティーナ、クリップ、および大工のソー(ノコギリ)で構成され、ノコギリは曲げられ、鉄またはナイフを使用してノコギリの口、または表面をガタガタ鳴らす。

サムは後にギターを演奏することを学んだが、父親の希望に反してギターを演奏することに、とても罪悪感を抱いた。それでサムはクマシに逃げて、T.C.C. Companyに参加したんだ。クマシで彼は、エルミナのクワ・カンタ(=Kwah Kanta)とケープ・コーストのH.E.ビニー(=H.E.Biney)に会った。クワ・カンタは木製の箱(=カホン)を、ビニーとサムはギターを弾いた。 1928年、彼らは録音のためにロンドンに行き、後に、ビニーが亡くなりカンタが去ったとき、クウェク・ビビ(=Kweku BibI)がギターで、コフィ・ロウワー(=Kofi Lawyer)がゴングで入った。サムは1950年頃に亡くなった。


ーーあなたの初期の音楽活動について教えてください。

K:戦前、私はアトウェム・バンド(=Atwem Band)と呼ばれるアダハ・バンドにいた(アトウェム=Atwemは弓を引くように描くことを意味する)。

これは、背面に弦が付いたサイド・ドラム、パティ・ドラム、トライアングル(三角形)、2枚の鉄、ファイフ、シンバルで構成されていた。このバンドでは私はギターを使わずに、パティ・ドラムとファイフを担当していた。 少年として、私はアトウェム・バンドの少年のセクションでプレイしていたが、鉱山からケープ・コーストに戻ったとき、成人のグループに加わった。

1939年、シルバー・スターズ・コンコマ・グループが結成され、私はアトウェム・バンドを辞めた。コンコマが来たとき、それはアトウェム・バンドを破壊した。コンコマ・バンドには、ジャズ・ドラム、パティ・ドラム、ベース、テナー、タンバリン(フレームドラム)、そして30人の歌手がいた。私はギターを持ち込んだ最初の人間となった。

アダハ、アカンのアデシム(=Akan adesim)を演奏した。これはハイライフ、アシャンティ・ブルース、ルンバ、フォックストロット、バンプス・ア・デイジー、サンバ、ラ・コンガ、スパニッシュ・ミュージック、ダゴンバ・ハイライフよりも速く、ホットな音楽だった。

ーーダゴンバ・ハイライフとはどういう意味ですか?それは北から来たのですか?

K:いや、クル人(リベリアから)によってもたらされたものだ。クル・ダゴンバ・ハイライフの初期の1つである”Dagomba wiya tangebu”がそうであるように、この言葉はおそらくクル人の言葉に由来してる。

ーーシルバースターに加入した後はどうなりましたか?

K:私は自分のアコテ・スペシャル・コンコマ・グループを続けて、戦争が終わったとき、戦争が終わったのと同様にコンコマも終わったので、私はそこを去った。

この頃までに、私はマスター・ギタリストとして、N.A.A.F.I.フランクリン・バンド(=N.A.A.F.I.Franklin Band)を結成し、ハイライフ、オハグア…すべてを演奏した。 N.A.A.F.I.は、海軍、陸軍、空軍研究所を意味し、フランクリンは、私が見学しに行った時に見た地区長官の論文にあった名前で、とても気に入ったんだ。

それから私はネイビー・ブルース(=Navy Blues)を結成した。それは、アプレンプレンセムナ(ジャイアント・ベース・ハンド・ピアノ)、パティ、タンバリン、シガレット・パン、クリップを使用していた。ネイビー・ブルースは、1951年にクマシに戻ったときに解散し、クリスマス後に戻ったときに、同じ楽器を持ったクワ・メンサーズ・バンドを結成したんだ。

最初の録音はH.M.V(His Master’s Voice)だった。私たちにはA面とB面でそれぞれの側に£5が支払われた。なんと、私はほぼ200のレコードを作成したんだよ!最初は私は俳優ではなかったけれど、プロモーターが私を俳優にすることを余儀なくしたので、1955年に自分のコンサート・パーティーを作ったのさ。

ーークワ、今後の計画を教えてください。

K:もう対話(演劇)はしたくないんだ。 音楽とデュエットしたい。 ミュージシャンが話したり冗談を言ったりして、それから私たちが演奏し、誰かが踊り、その後、私たちの一人が再び何かを言う。そんな感じのね。

トラディショナルな音楽を続けるけれど、酋長のドラムや狂信的なドラムのようなのは使いたくない。オマンヒニ(=Omanhene。酋長の中の酋長の意)のドラムを演奏するのは良くないし、私たちは狂信的な男性ではない。

私の古いナンバーのいくつかは非常に良くて、すべての古いレコードは台無しになっているから、私は現在、新しい長年のレコードを作りなおしているところだよ。

ーー若いミュージシャンへのアドバイスは何かありますか?

K:あなたがもし黒人で、ソウルをプレイしたいなら、あなたはそれをすることができる。あなたが白人で、文化的なプレイをしたいなら、プレイできるだろう。しかし、それらを混ぜて、中途半端にするのは良くない。

若いミュージシャンへの私のアドバイスは、トラディショナルを演奏したいなら、本物のトラディショナルを、アフロを演奏したいなら、本物のアフロを演奏することだ。

私は彼らに立ち止まるよう勧めるつもりはないが、もしあなたがトラディショナルを演奏しているなら、オルガンを内部に持ち込まない方がいい。ただし、トラディショナル音楽にギターを使用する場合は問題ない。ギターはアフリカから来て、ヨーロッパ人はそれを模倣するようになったわけだからね。

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クワ・メンサーに関するこの章は、更新プログラムを提供して終了しよう。

1982年、クワアは文化観光省から”名誉の巻”を授与され、1986年にはガーナのエンターテイメント批評家評論家協会、ECRAGの受賞者の1人になった。

1980年代後半、彼はケープ・コースト大学音楽学部の上級研究員となり、その後ガーナ大学レゴン校のパフォーミング・アーツ学部の主任研究員となった。

1990年、クワアはボクール・アフリカン・ポピュラー・ミュージック・アーカイヴス・ファウンデーション(BAPMAF)のエグゼクティブ・メンバーになり、多くの古いシェラック78回転のハイライフ・レコードを寄付した。

1990年10月、彼は、見本市会場で文化に関する全国委員会が主催した”ハイライフ・アワード・ナイト”で賞を受賞した。

1991年2月22日、彼はケープ・コーストでの短い病気の後に亡くなった。


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