第13章 ブロードウェイとウフール・ダンス・バンドのスタン・プランジ / 後編

 スタン・プランジはかく語りきーーー

 ブロードウェイ・ダンス・バンド、ウフール・ダンス・バンドの中心人物として活躍したスタン・プランジのキャリアを辿ったインタビューの後編をお届け。

 ※前編はプランジの音楽キャリアの初期から、スターゲイザーズに参加〜離脱するまで。

ーーそれまでにレコーディングをしたことはありましたか?

P あるよ。スターゲイザーズとレコーディングした。私はアレンジをしたんだ。それからダウンビーツと一緒にラゴスにいたとき、フィリップス(=Phillips/オランダのレコード会社。West African Recordsと言うアフリカ専門のシリーズがあった)のために、ラゴスにあるハーバート・オグンデのスタジオで、ハーモネアズというグループと一緒にレコーディングを2回やった。

私はバンドのアレンジをした。そして私たちはとても良く仕上がった2つのシングルを作った。 彼らはギター、ドラム、そしてボーカルのハイライフで、ホーンはなかったね。

ーーブロードウェイ・ダンス・バンドという名前は、どのようにしてウフール・ダンス・バンドに変わったんでしょうか?

 何が起こったのかというと、まずある時、アートセンターで行われていた伝統的なドラミングやダンスのコースの受講の為にアクラにやって来ていたんだ。

私たちはそこに3ヶ月間滞在し、ドラマ・スタジオ近くのパペット・シアターにいた。私たちのグループ、ジョージ・リーのメッセンジャー、そしてファーマーズ・カウンシル・バンドがこのコースを利用していた。ミュージシャンは無料だった。

私たちが(タコラディに)戻ったとき、給料についていくつかのトラブルがあったので、私たちは今後はパーセントで経営者と仕事をすることにしたんだ。しかし、彼らが望んでいたパーセンテージは、古かった楽器の状態を考慮すると、多すぎるものだった。

それで、私たちはそこを去って、2ヶ月以内にE.K.ダドソンとクロボ・エデュセイに楽器を購入させたんだ - 当時はセット全体で£1,600ほどだった。

後でダドソンはクロボ・エデュセイに彼の分け前を返済したから、バンドはダドソンのものになった。

ゼニスの管理者が商標登録をしていなかったので、私達はブロードウェイという名前を使い続けた。実際には、私たちが登録したんだよ。

しかし、彼はその名前が自分のものであると主張して、私たちを法廷に連れて行き、私たちにそれぞれ£2,000、13人全員で£26,000になる金額で訴えてきた。

まあ結局、彼は負けたんだけど、名前をそのまま使うには£75を払わなきゃならなくなった。そこで、俺たちは”ウフール”(=Uhuru/スワヒリ語で「自由」と言う意味)という名前を選んだんだ。これは1964年のことだったね。私が引き継いだ1965年までは、サミー・オボットがリーダーだった。

ガーナ航空がモスクワへの飛行を開始した時、私たちは約6週間モスクワに行った。実際、私たちはまだブロードウェイと呼ばれていたんだけど、ルムンバ大学とメトロポール・ホテルでは、テレビの前でプレイした。ボブ・コール、Dr.K.ギャシ、クワベナ・キング・オニイナ、そしてコメディアンのサンプソンと一緒に行った。

それから、私たちはナイジェリアでいくつかのツアーをした。 1966年か1967年に、私たちはチャビー・チェッカーと共にツアーに行って、ナイジェリアの内戦が始まろうとしていた頃に戻って来た。私たちがヌスカ(=Nsukka/ナイジェリア中南部の内陸の都市)を出発してから3日後に、ビアフラ戦争が始まった。

私たちは、たくさんのファンがいて、たくさんのお金を稼いでいたので、東部が一番好きだった。東部は常にガーナ音楽のための最高の市場だったんだ。

60年代後半に、フィリップスのためにLPを作り、1970年にロンドンのデッカ(=Decca/フィリップスと並んでWest African Seriesと言うシリーズがあった)のためにLPを作った。当時は、バンドのフロントラインには3人のトランペット、3人のトロンボーン、5人のサックスがいた。



ーー1968年に行った東アフリカ・ツアーはどうでした?

P フェイサル・ヘルワニがプロモーターで、旅行は東アフリカ航空によって後援されていた。私たちはジャッキー・メンサー、ガイ・ウォーレン、それとウィリー・チーザムがリーダーだったローリング・ビーツと一緒にプログラムに参加した。

私たちが出発する時、実は私のバンドの半分以上は行けなかったんだ。

何が起こってたかって言うと、ウフールのマネージャーのE.K.ダドソンが、フェイサルに「出発の前に半分の金を払ってくれ、でなけりゃ行かないよ」って言っていたのに、私達が出発する前の夜までにフェイサルは払いに来てなかった。それで、夜の8時までの間に、ダドソンは私たちのパスポートのほとんどを持っていた秘書を家に帰らせてしまったんだ。

彼は翌日、ツアーには行けないだろうと考えていなくなっちゃったんだけど、その後にフェイサルはその金額を支払った。でも私たちのパスポートは、既に彼の秘書と一緒に帰っちゃってたってわけ。

翌日、私たちは秘書がパスポートと一緒に空港に来ることを期待していた。私たちは待って待って待ったんだけど、秘書はそこに訪れなかったから、結局は私が急いで事務所に駆けつけた。

私はなんとかパスポートを手に入れることができた、しかし空港に戻った時には既に、飛行機はフェイサル、ローリング・ビーツ、ウィリー・チーザムとウチのバンドの行けるやつら4人で出発しちゃってたんだ。ガイ・ウォーレンも行かなかった。フェイサルが誰かにウォーレンに電話をかけさせていた。彼は何だかイライラしているようだったね。だから、ウチのバンドの70%と、ウォーレンと私は、行くまでにさらに1週間待たなければならなかったんだ。

私たちはカンパラ(=Kampala/ウガンダの首都)で残りのメンバーと落ち合い、そこで2つのナイトクラブとテレビの前でプレイした。そこから、モンバサ(=Mombasa/ケニアの都市)へ、さらにナイロビ(=Nairobi/ケニアの首都)に行ったんだ。東アフリカで約5週間ほど過ごした。

ーーそこではミュージシャンに会いましたか?

 うん、コンゴのバンドと会ったよ。東アフリカの地元のグループは、スワヒリ語で歌われる一種のコンゴ音楽を演奏していたね。彼らはハイライフはプレーしなかった。

ーーあなたは1972年にウフールズを去りました。なぜ去ることになったんでしょう?そして、その後はどんな活動をしていたんですか?

 経営陣に問題があったんだ。ご存じのとおり、私がラゴスでのEMIと、EMIのレパートリーを担当していた。ウフールズとヘッゾレのレコーディングを依頼した。事実、私はガーナから8トラックのEMIスタジオで、グループを組んだ最初の人間だったんだ。

1972年にヘッゾレとウフールズのレコーディングのリミキシングを手助けするために戻ってた後、私自身とウフールズのオーナーの間にいくつかの問題があって、辞めるのを余儀なくされた。

その後、私はフェイサルと提携して、オビビニ・レコードというレコード会社を設立した。私たちはヘッゾレのレコーディングをEMIに渡すつもりはないと決心し、自分たちのレーベルでシングルを2枚リリースして、LPもリリースするつもりでいた。レコーディングを終えた後、私はイタリアの映画である”Contact”のサウンド・トラックに使ってもらえるようにテープを残して、交渉に行ったんだ。

私がイタリアにいたこの頃、ヒュー・マセケラがやってきて、ヘッゾレとマセケラはLP 「Introducing Hedzolleh」の楽曲を再度レコーディングするためにナイジェリアへ飛んだ。そのレコーディングの楽曲のほとんどは、最初のレコーディングと同じだったけど、マセケラがトランペットをプレイしている。

フェイサルとの付き合いの後、私たちは財政問題のためにそれを続けることができなくなった。それで私はバンドの音楽監督として、ブラック・スター・ラインに加入した。2年近くそこにいたかな、そして、私は自身の時間を無駄にしている事に気付いて、そこを去った。

プライベートのバンドでプレイした後、私は政府やコーポレーションのバンドのミュージシャンは、プライベート・グループのミュージシャンとは違うことに気づいた。

政府やコーポレーションのバンドでは、ミュージシャンは毎月の終わりに何をしてても給料をもらえることを知っている。だから彼らは、間違いを犯したり、適切に自分の課題を学んだりしてる余裕がある。

でもプライベート・グループでは、上手くプレイできていない、または契約を得ていない場合、月末に給料はどこから来ているのか疑問に思うだろう。

私はブラック・スター・ライン・バンドのそんな官僚制を変更しようとしたんだけど、ミュージシャンの何人かは12年から15年もそこにいたからダメだった。だから最後に私が去った。

ーーウフールズで行ったレコーディングについて教えてください。

 ウフールズを使って私は、割と実験的な録音をし始めた。私の最初の曲は「Eno Brebre」と言う曲。それは「女性が夫と口論して、公然と彼女の”汚れた麻布を洗わない”ならば、忍耐強くなるように女性に助言すること」について歌っていた。

当時、ダンスバンド・スタイルのミュージシャンたちは、ギターバンド・スタイルのミュージシャンたちを劣ったタイプのミュージシャンだと思って、見下していたんだ。私はそんな2つを一緒にすることを試み、レコーディングでダンスバンドとギターバンド、両方のミュージシャンを起用した。

ギターバンドからはフリンポン・マンソを歌手として起用した。ー彼は今はオソフォ・ダッジーとして知られているね。ギタリストには、現在オソフォ・ダッジー・コンサート・パーティー※のギタリストであるS.K.オポンを起用した。



※オソフォ・ダッジー・コンサート・パーティーは最も人気のあるテレビ・コンサート・ショウで、現在の社会問題に関する演劇を専門としている。



実際、レコードの裏面はマンソの作曲で「Oh Mama Beka Akwantum」と呼ばれていた。これは”ある人に何らかの問題が発生した場合、その原因は別の人に帰されるはずである”と歌われている。他のミュージシャンには、現在はアメリカにいるボーカリストのエド・エントレ、ドラマーのリム・オベン、そして当時ウフールと一緒にいたクロボのシンガー、シャーロット・ダダ(後のアサベア)で、彼らはウフール・ダンス・バンド出身だった。

それ以降、さらに2回レコーディングをした。それらは同じボーカル・グループとパット・トーマスを起用した。レコードは私自身のレコード・レーベル「Nats Egnalp(Stan Plange backwards)Music Publishers」でリリースされた。

ーー1番成功したレコーディングはどれだと思いますか?

P オポンと一緒にやったことかな。そして、またジョー・メンサーと一緒に作曲したこと。「Uhuru Special」とその曲は呼んだけど、実際にはアレンジとしては、それほど多くの作曲をしなかった。

ーーウフールもビバップをプレイをしていましたね。

P ウフール自体はビッグ・バンドのジャズを演奏してたけど、ウフールの中の小さなグループがビバップを演奏してテレビに出ていたね。

それはテナー・サックスのエボウ・ダドソンとドラムのリム・オベンで、ザ・ボガルテ・サウンズと呼ばれていた。オソフォ・ダッジー、ナナ・ボソムプラと言った男によって作り出された。それは、私がナナに彼らを紹介したんだよ。1969年のことで、彼らは後にオソフォ・ダッジーと呼ばれるようになる "ジャタクロム"と呼ばれるテレビ番組を始めたね。



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