イントロダクション:前書き - 前編

●イントロダクション

ハイライフはガーナの最も重要な、そしてモダンな自国のダンス・ミュージックである。

そのルーツは、19世紀後半から20世紀初頭のブラス・バンド、ダンス・オーケストラ、そして、ギターやアコーディオンのパームワイン・グループにまで遡るが、最近では”コンサート・パーティー”やそのギターバンドと特に結び付いていると考えられている。 これらは、ガーナのあちらこちらで、村の人々や都会の貧しい人々に、ドラマ、アクロバット、魔法のディスプレイ、そしてハイライフのダンス・ミュージックを提供するプロのパフォーマーのグループであった。

1960年代後半から、”コンサート・パーティー”はガーナの”カルチュアル・パワーハウス=文化的大国”としての役割を果たし、現代のガーナの大衆芸能人たちに最も重要な地元の影響を与え、そのための道を開いてきたと言っても過言ではないのである 。

では、コンサート・パーティーとハイライフのストーリーをもう少し詳しく見ていくことにしよう。

●ザ・コンサート・パーティー

“コンサート・パーティー”という名前が示すように、それは最初に持ち込まれた西洋のコンサートから生まれた。なによりも重要だったのは、毎年の大英帝国記念日(5月24日)にステージで行われていたスクール・コンサートだった。教会の伝道部によって行われた”カンタータ”、聖書物語、そして道徳的演劇もガーナに西洋のステージ・アートを紹介するのを助けた。

3番目にコンサート・パーティーへ与えた外国の影響は、第一次世界大戦頃から上映され始めた、チャーリー・チャップリンとブラック・フェイス・コメディアンのアル・ジョルソンが主演していた映画を通じて成された。 4番目は、ヴォードヴィルや、ミュージック・ホールの経営者によって連れて来られた、アフリカ系アメリカ人やカリブ海を含むアーティスト達によってもたらされた。

ガーナの最初の”コンサート・パーティー”で注目された俳優は、セコンディ・エレメンタリー・スクールの校長であるティーチャー・ヤリー(=Teacher Yalley)だった。

彼のキャリアは、1918年に彼の学校の帝国記念日のコンサートで、ジョークや、歌、踊り、仮装、かつら、口ひげの着用、そしてアメリカの白黒のミンストレルのメイク・アップをすることで始まった。彼の3時間のショウは、雇われたブラスバンドが、行進しながら街宣し、劇場の外で終わることで始まった。ラグタイム、フォックストロット、クイックステップにワルツなど、当時人気のあった社交ダンスの曲で違いを提供してくれたトラップ・ドラマーとハーモニウム奏者の助けを借りて、ヤリーは寸劇を行った。

彼のショウは英語で行われ、チケットは高価だったと言う。その結果、彼の聴衆は主に教育を受けた黒人エリートが中心だった。その当時少年だった有名なファンテのコメディアン、イシュマエル・ボブ・ジョンソンは、観客は地元の公務員と紳士がほとんどで、そこに少数のヨーロッパ人がいたことを覚えている。

ボブ・ジョンソン自身の俳優としてのキャリアは、帝国記念日のパレードの後に行われたセコンディ・メソジスト・スクールでの公演で始まった。彼の最初のグループはヴァーサタイル・エイト(=Versatile Eight)と呼ばれる男子生徒の集まりで、学生であるにもかかわらず、その後の”コンサート・パーティー”の主な3つを形成することとなる全てのストック・キャラクターを含んでいた。

それは、”ジョーカー”、”紳士”、そして”女性役(女形)”。

ジョンソンは、ブラックフェイスに奇妙な、または、不規則な服を着てジョーカー役を果たした。事実、彼はそれをうまくやったので、その後、この役割(=ジョーカー)は、”コンサート・パーティー”の専門家の中で”ボブ”として知られるようになった。

ジョンソンの成功は、部分的に彼がアカンのフォルクローレのヒーロー、”いたずら好きなアカンセ・ザ・スパイダー(=Ananse-the-Spider)”のそれと、輸入されたブラックフェイス・ミンストレルの特徴を融合させたことの結果だった。これは”コンサート・パーティー”のジャンルの”アフリカ化”における、重要な初期段階だった。

ジョンソンは、セコンディの彼の家の向かいにあったオプティミズム・クラブ(=Optimism Club)を訪問した船員の名前である”ボブ”を拝借したんだーーと、私に言った。

彼は、リベリアの船員がギターやミュージック・ソー(=西洋鋸を元にした体鳴楽器)に合わせて、”海のシャンティ”を歌うのを見たり、アフリカ系アメリカ人が、コントをしたり、フォックストロットやラグタイムを歌ったりするのをよく見かけた。ジョンソンにニックネーム”ボブ”を与えたのは後者だった。実際、彼は当時のアフリカ系アメリカ人船員は、一人一人を”ボブ”と呼んでるように見えたと私に話した。

ボブ・ジョンソンに対するもう一つのアフリカ系アメリカ人の影響は、グラス&グラントによって1924年から1926年の間に行われたショウを通して訪れた。

このコメディー・チームは、リベリアから地元の映画配給会社と映画館のオーナーであるミスター・アルフレッド・オカンセイ(=Mr. Alfred Ocansey)によってガーナに連れて来られた。ジョンソンはセコンディでそれらを見て、”ステージ上の大胆さ”ーすなわち、彼らのプロ意識に感銘を受けた。 ティーチャー・ヤリーのショウのように、彼らのショウは一流の仕事であり、コメディの前のサイレント・フィルムと共に始まった。

コメディ自体はヴォードヴィルだった。そして、ミンストレルを演じるグラスと、彼の妻のグラントはジョークを飛ばしてタップ・ダンスをし、ラグタイムを歌った。このアフリカ系アメリカ人のペアは、彼らが熱中していたガ族のコメディアン、ウィリアムズ&マルベル、そしてシエラレオネのウィリアム&ニコルらがいたアクラのパラディウム・シネマを拠点としていた。

このアフリカ系アメリカ人が、ナイジェリアに西アフリカでのツアーを続けるために去っても、”アクラ・ヴォードヴィル”の伝統は続いていった。

1920年代後半までには、”コンサート・パーティー”の伝統は2つの異なる種類に分かれ始めていた:一方ではヤリーと、”アクラ・ヴォードヴィル”のアッパー・クラス向けのショウで、もう一方は、ボブ・ジョンソンのスクールボーイ&シックス・ペニーによるショウだった。

1930年にジョンソンは、村人や都市に住む貧しい人々向けに”カロライナ・ガール”を上演する為、にトゥー・ボブス(=Two Bobs)を結成してプロになった。一言で言えば、ジョンソンはエリートたちの為のジャンルを”ハイジャック”したのだ。それは、次第にハイクラスのショウが衰退していっていたので、ガーナにとって幸運だったのかもしれない。

ガーナの劇作家であるエフア・サザーランドによれば、

「トゥー・ボブスのショウは、看板を身に着けながら鐘を鳴らしていたベルリンガーによって宣伝されていた。彼らのコストは、フル・ブラス・バンドを雇うよりも安かったからね」

ショウ自体は、30分の”コメディ”から始まった。

 ショウは3つのセグメントで構成されていて、 クイックステップの”オープニング・コーラス”は3人のコメディアンが踊り、歌った。その間の”イン”では、1人のボブがラグタイムを歌い、2人のボブによるジョークの掛け合いである”デュエット”で終わった。音楽はグループ自身によるもので、夜用に雇った地元の学校のブラスバンドやオーケストラの何人かのメンバーの助けを借りて、ジャズ(すなわちトラップ、またはキット)ドラマーによって提供された。オープニング “コメディ”の後で “シーン”が来る時もあったが、その都度、適切にプレイしていた。

このショウは、1時間遅れて英語でも行われたが、オーディエンスの全てが西洋化されている訳ではなかったので、時折アカン語への翻訳で対応していた。

(アッパークラス向けとジョンソンたちの)2種類のコンサートの間でのもう一つの違いは、ジョンソンがポピュラーな西欧の歌に加えて、少しながらもローカルのハイライフを使い始めたということだった。

1935年、ボブ・ジョンソンは、すべての成功者のプロト・タイプとなったアクシム・トリオ・コンサート・パーティー(=Axim Trio Concert Party)のジョーカー、またの名を”ボブ”になった。 E.K.ダドソンは”スザンナ(女形)”を演じ、チャーリー・ターピンは”紳士”を演じた。彼らは自分たちのドラマーとハーモニウム奏者の伴奏に応じて演じた。エフア・サザーランドによると、ある時点でトリオは、有名な初期のパームワイン・ハイライフのギタリスト、クワメ・アサレ(ジェイコブ・サムとしても知られる)をフィーチャーし始め、彼は演奏し、ファルセットで歌った。

彼らの最初の契約はナイジェリアのツアーで、22人の強力なケープコースト・シュガーベイビーズ・ダンス・オーケストラが参加した。ガーナでのアキシム・トリオの通常の練習は、彼らの2人のミュージシャンに、地元のブラスバンド、または”コンコマ(=Konkoma)”・マーチング・グループのメンバーを、夜のパフォーマンスのために雇い、補った。

彼らのショウは”オープニング・コーラス”、”イン”、”デュエット”で構成され、2時間のプレイが続いた。グループが解散した1950年代半ばまでに上演されたいくつかの劇のタイトルには、「第6王ジョージの戴冠式」、「1844年の絆(ファンテ=ブリティッシュ同盟について)」、「テンフットの男」、「アドルフ・ヒトラーの没落」、「クワメ・エンクルマは決して死なない」などがあった。

ナイジェリアの他に、アキシム・トリオは北部を含むガーナの大規模なツアーも行った。また、リベリア、コート・ジ・ボワール、シエラレオネへも訪問した。ナイジェリアの作家、エバン・クラーク(=Ebun Clark)によると、ラゴスのティヌブ・スクエア(=Tinubu Square)でのアキシム・トリオとボブ・ジョンソンの演奏は、ヨルバのスウィングとバラエティの出演者だったボビー・ベンソン(=Bobby Benson)に影響を与えたのだと言う。

ハイクラス向けのコンサート・パーティーは1930年代に消滅したが、アキシム・トリオは1940年代までにガーナで人気を博し、他の多くのグループがそれをモデルにした:西部のボブ・コールのハッピー・トリオ(=Bob Cole's Happy Trio)、ジョヴィアル・ジョーカーズ(=The Jovial Jokers)、ディックス・コヴィアン・ジョーカーズ(=The Dix Covian Jokers)、ウエスト・エンド・トリオ(=The West End Trio)。中央地方のソルトポンド・トリオ(=The Saltpond Trio)とサム(つまりクワメ・アサレ)と彼のパーティー、東部出身のY.B.バンポーのスクールボーイ・ヤンキー・トリオ(=Y.B. Bampoe's Schoolboy Yanky Trio)そして、ヴォルタ地方のケタ・トリオ(The Keta Trio)などである。

第二次世界大戦は、現地のパフォーマーがやってくる同盟軍のためにショウを上演したため、コンサートの職業に直接影響を及ぼした。コンサートは、インドとビルマに駐留していたアフリカ軍のためにも開催された。1943年から1946年にかけて、これらの国に配置された西アフリカ・フロンティア・フォース内にアフリカの劇場が設立された。リーダーはボブ・ヴァンズ(=Bob Vans)で、他の6人のガーナ人とともに現地のキャンプや病院を訪れ、”コンコマ”などのさまざまなハイライフの音楽に合わせて、ピジン英語でプレイした。1946年にヴァンズがガーナに戻った時、彼と他のガーナの元軍人は、ビルマ・ジョーカーズ(=Burma Jokers)を結成した。1948年に、彼らは時代のナショナリズムの高まりのために、ガーナ・トリオと改名した。

ヨルバ・トラベリング・シアターの開拓を始めたばかりのナイジェリアの劇作家、ヒューバート・オグンデ(=Hubert Ogunde)がガーナに2回ほど旅行したのもその年だった。その結果、彼はラゴスの彼自身のグループのために、ガーナのコンサート・パーティーにおける、ジャズ音楽と白黒のミンストレルと言った要素を採用した。実際に、彼は数年間、彼の人気ドラマ・グループを、コンサート・パーティーと呼んでいた。

1952年、ギタリストのE.K.ニアメ(=E.K. Nyame)が、コンサート・パーティーの職業に大きく貢献した。彼はE.K.’s・ハイライフ・ギターバンドのリーダーであり、その年のアキシム・トリオの成功に触発され、彼自身のコンサート・グループを結成した。彼はそれをアカン・トリオ(=Akan Trio)と呼び、彼自身のバンド・メンバーの中から俳優を募集し、”紳士”の役割は自分で担った。ギターバンドのハイライフとコンサートでの演技の統合に加えて、アカン・トリオがアカン言語のみで初めて演奏したという事実は、彼のグループを即座に成功させた。数年以内に、他のほとんどのギターバンドが彼らを追随した。逆に、既存のコンサートでは、小さな音楽セクションがフル・ギターバンドに拡大された。さらにE.K.ニアメの革新の1つは、彼がアフロ・キューバンの楽器(ボンゴとコンガ)と、アメリカン・ジャズとスウィングの楽器(ダブル・ベース)を使用した最初のギターバンドだったことである。彼はこれらのアイデアを、アクラのE.T.メンサーと彼のテンポスによって先駆けられていた、現代的でありながら名門のハイライフ・ダンスバンドから引用していた。 E.K.のバンドは、400枚ものレコードを作り、ガーナだけでなくナイジェリアでも人気があった。

戦後のほとんどのガーナのコンサート・パーティーの雛形となったのは、アキシム・トリオと、よりアフリカ化されたアカン・トリオの両方であり、事実、ハッピー・スターズ・オブ・ロメ(=Happy Stars of Lome)などのトーゴのコンサート・パーティーの雛形にもなった。

50年代、および60年代の最も重要なガーナのコンサート・グループには、カカイクズ・グループ(=Kakaiku’s Group)、ジャガー・ジョーカーズ(=The Jaguar Jokers)、ガーナ・トリオ(=Ghana Trio)、オニイナズ・ロイヤル・トリオ(=Onyina’s Royal Trio)、クワ・メンサーズ・グループ(=Kwaa Mensah’s Group)、ハッピー・スターズ・オブ・エンサワム(=Happy Stars Of Nsawam)、I.E.メイソン・グループ(=I.E.Maison Group)、ヤモア・グループ(=Yamoah Group)、Dr.ギャシのノーブル・キングス(=Dr.Gyasi’s Noble Kings)、ブリゲイド・コンサート・パーティー(Brigade Concert Party)、ナナ・アンパドゥのアフリカン・ブラザーズ(Nana Ampadu’s African Brothers)などがいた。

1960年までに、最初のコンサート・パーティ・ユニオンが結成されたとき、国内には約30のグループがあり、全盛期の1970年代半ばには、その数は50から60の間に達した。

アクティブなグループの数は近年減少してきたが、その影響は新しいメディアの使用を通じて続いている。

ボブ・コール主演の『I Told You So』などのコンサート・プレイの映画がある。テレビ・コンサート・パーティー・シリーズは1970年代に始まり、これらは多くのコンサートの女優に道を提供するだけでなく、強い道徳的で教訓的なトーンを持つ傾向がある。中でも最も人気のある2つはオソフォ・ダッジー(=Osofo Dadzie)とオブラ(=Obra)。 1970年代後半から、コンサート・グループは、演劇の写真を撮影し、コミック・キャプション、または「フォトプレイ」形式にまとめ、バルーン・キャプションを付けるなどをしていた。最新のメディアは「ダイヤル」カセットで、このカセットでは、音楽が事前に録音されたオーディオ・カセットに入れられ、商業市場でリリースされている。


ーー後半へ続く。




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