第11章 キング・ブルースとブラック・ビーツ・バンド

最初にキング・ブルースと関わりを持ったのは1970年代の半ばで、自分のバンドであるボクール・バンドのために彼から機材を借りた時だった。

しばらくの間、私達は二人とも、ガーナのミュージシャンたちの組合(MUSIGA)の理事会にいた。

1987年8月、キングはアクラで開催された、ポピュラー・ミュージック研究のための国際協会の会議(IASPM)で、多くの興味深いプレゼンテーションを行った。 テーマは”ポピュラー・ミュージックの世界におけるアフリカ”。

そのスピーチ以来、私は彼のために4曲をレコーディングした - "Esheo Heko(There comes a time)"、 "Onyiemo Feo Mi Feo(Walk Beautiful)"、 "Ekole(Perhaps)"、そして "Tsutsu Tsosemo(Old Time Training) " - それらをキングは、ローカルではあったけれど、カセットでリリースした。

キング・ブルースはガ(=Ga。ガーナの民族の一つ)で、1922年にアクラのジェームズ・タウンで生まれた。彼の音楽体験は早くから始まり、様々に変化した。母親はエシ・ペンフォと呼ばれる伝統的な女性のコーラス・グループに所属していた。長男のクパクポ・トンプソンは、彼にピアノを教え、もう一人の兄、エディ・ブルースはキャンテーンと呼ばれた船員たちのグループで、”消防士”と”ダゴンバ・ワイヤー“のようなパームワイン・スタイルのギターを弾いていた。 しかし、彼の両親の希望に反して、キングは、アラハ、コロマシエ、シボデ、コイインと言った、地元のガ族のドラミング・グループによって演奏されるポピュラーなダンス・スタイルの、アクラのストリート・ミュージックの熱心な支持者だった。

有名なアチモタ・カレッジでも、キングはとりわけ音楽を教えてくれた先生たちにインスパイアされ続けたと言う。 ガーナの国歌を作曲したフィリップ・グベホや、ドクター・エフライム・アムなどだ。

キングが言うには、

「私の家の主人であり、音楽の先生でもあり、チュイとエウェ(TwiとEwe。チュイもエウェも、ガーナの民族の一つ)の曲を教えてくれたんだ。 彼はアフリカに強いこだわりがあったから、アクロポン・トレーニング・カレッジ(=Akropong Training College。ガーナ東部アクワピム地区にのアクロポンにある共同教育の教師養成大学)で教師として働いていたが、西洋風のスーツを着て、教室や教会に行くという考えを支持していなかったので、いつも伝統的なケンテ布やバタカリを着ていた。 彼は、1930年代にまでさかのぼったアフリカの文化に強い関心を持ったいたので、学校の創設者 - グギスベルク、フレーザー、そしてアグリー - が、アフリカ文化促進の方法に強い興味を持っていたこともあって、アチモタで歓迎されたんだ」

アチモタでのキングの学校生活の終わり、彼がスウィング・ジャズとダンスバンドの音楽に傾倒したのは、

「戦争の年で、イギリスとアメリカの軍隊を駐留させたためだった。彼らは娯楽のためのバンドを持っていたおかげで、ボールルーム・ミュージックは非常に進歩したんだ。空港は実質的にアメリカ人によって引き継がれた。そして、アチモタの1つの翼は、ここでイギリスの戦争の努力を引き受けていたイギリスの駐留していた大臣によって引き継がれた。これはグレン・ミラー、ベニー・グッドマン、アーティー・ショウのようなミュージシャンの時代だった。 アチモタを去る頃には、ジャズとスウィングが大好きになっていたよ」

キングは実際にダンスバンドでプレーを始めなかったけれど、イギリスのP&T(Posts and Telegraphs)で公務員になる為の勉強をしながら、トランペットを吹くくことを学んで数年間を過ごした。

1950年にアクラに戻ったとき、彼はアドルフ・ドク、E.T.メンサー、コフィ・ガナバ(=ガイ・ウォーレン)、ジョー・ケリー、そしてパパ・ヒューズのようなトップ・ミュージシャンとしばらくの間、時間を共にした。

彼は時折、ガーナを代表するハイライフ・ダンスバンド、ザ・テンポスのためにクリップ(クラヴェス)を演奏した。

キングは、彼がトランペットで舞台に行く準備ができたと感じたとき、ティーチャー・ランプティのアクラ・オーケストラに加わった。

キングは1952年までこのグループにとどまって、テナー・サックスだったサカ・アクアイエとブラック・ビーツ・バンドを結成した。

キングによると、この名前は、

「ただ自然に出てきた。ある晩、リハーサルから帰ってきたとき、サカはどんな名前を使うつもりかを私に尋ねた。躊躇せずに私は"ブラック・ビーツ"と答えたんだ。その理由は、アチモタのドクター・アムが私たちに教えた、"アフリカ独自のことをやる必要性"に感銘を与えたから。同時に、グループとして、私たちはジャズ、スウィング、そしてビートのある音楽に非常に夢中になっていた。だから、私達はみんな良いダンスバンドの音楽を演奏することに興味を持っていたのと同時に、それらすべてに、わかりやすいアフリカのビートを与えることにも熱心だったんだ」

だと言う。

他のガーナのダンスバンドとは異なり、ブラック・ビーツのボーカリスト(ザ・ブラック・バーズ、ルイス・ワダワ、およびフランク・バーンズ)はインストゥルメンタルのラインナップを支配し、この中で彼らはアフリカ系アメリカ人であるルイ・ジョーダンのスウィング・アンド・ジャンプブルースの影響を受けていた。

ブラック・ビーツがHMV、Senophone、Deccaのためにキングが作曲し、一連のハイライフ・ヒットとなる楽曲をリリースし始めたのは、この形式だった。 "Teemon Sane(A Confidential Matter)"、 "Lai nomo(Old Lover)"、 "Nkuse Mbaa Dong(I'll Never Return)"、 "Nomo Noko(A Thing of Joy)"、 "Srotoi Ye Mli(Distinctions)"、そして、" "Agooyi(Money - この曲はオスカモレ・オフォリによって作成された)"



しかし、1961年に災難がバンドを襲った。

アルト・サックス奏者のジェリー・ハンセンと9人のミュージシャンが、セミ・プロフェッショナルだったブラック・ビーツを去り、完全にプロフェッショナルなランブラーズ・ダンス・バンドを結成したのだ。

それにもかかわらず、数ヶ月以内にキングは彼のバンドを再編成し、この第二世代でブラック・ビーツはDeccaにて、さらなるヒットをリリースし始めた。 "Se Nea Woti Ara(I love you just as you are)"、"Kwemo Ni Okagbi(Take care you don't dry up)"、"Odo Fofor(New Love)"、および、"Nkase Din(I am quiently poised)"。



キングがブラック・ビーツでプレイしていた全期間を通して、彼は公務員のはしごをゆっくりと上っていっていたが、ステージでプレーすることについては、上司から多くの批判を受けた。

キングがコメントしているように。

「最初は私の雇用主からの反対意見だった。それから1967年に私が政府から受け取った手紙の結果として、反対はモノクロでやって来た。行政公務員長からのもので、彼らは、私のアシスタントからフル・プリンシパル・セクレタリーへの昇格のために邪魔をしている唯一のものは、私のダンスバンドでの演奏だと言った」
「だから私はプレイを続けるか、昇進を受け入れるかどうかを決める必要があった。私は1968年のイースターまでプレーするという約束を持っていたが、4月以降はその約束を守り、もう公の場ではプレーしないと答えた」

私はキングに彼がこれについてどう感じたか尋ねた。彼は答えた。

「私は学究を研ぎ澄まし、新しいアイデアをもたらすのは、バンドでの演奏であるといつも信じていたから、とてもイライラしたよ。あなたが何もしないで座っていれば、新しい音楽は生まれない。だから、私は音楽を演奏するためにたくさんの犠牲を払わなければならなかったけれど、いつもそれを追求して、それから生活に繋がる何かを作りたいと思っていた。だから、演奏の禁止には、とても傷ついたよ」

しかし、彼はバンドを走らせ続けた。

キングは、ブラック・ビーツのリーダーシップをサミー・オドーに譲った。演奏の代わりに、キングはバンドの管理を始めた。 そしてジェームズ・タウンの彼の家にはたくさんのバンドたちが拠点を置くようになった。



1970年代に彼は8つの "BB"バンドに関わっていた。ブラック・ビーツ、バーベキューズ(=Barbecues)、 バロンズ(=Barons)、ボナファイズ(= Bonafides)、バリスターズ(= Barristers)、ボルダーズ(= Boulders)、ビー・ソヤヤ(= "B"Soyaaya)、そして、ブレスド・アポッスルズ(=Blessed Apostles)だ。

公務員、作曲家、バンド・リーダー、マネージャー、そして彼のグループを通過していった100人ほどのミュージシャンの教師であることに加えて、キング・ブルースはガーナのすべての音楽組合を組織する手助けをする時間を作り上げた:1950年代のゴールドコースト・ミュージシャン協会、少しの間だけガーナ・ミュージシャン組合(1960-1966)、そして現代のMUSIGA。

1977年にキング・ブルースは公務員を退職したが、まだ積極的に彼の音楽的キャリアを追求していった。

彼はその後も2つの "B"バンド(ブラック・ビーツとバリスターズ)を運営し、彼の昔のヒットのいくつかを再レコーディングし始め、MUSIGAで活動し、そして、コピーライト法の変更に関与した。 

彼の音楽的キャリアの最後の段階で、彼はアクラのクナシエにある16トラックのエレファント・ウォーク・レコーディング・スタジオのマネージャーになった。

1988年4月30日に、ガーナのエンターテイメント・クリティックス・アンド・レヴュワーズ協会(ECRAG)から、"ハイライフ・ミュージックの分野におけるガーナの芸術と文化の発展への多大な貢献”に対して、キング・ブルースに賞が授与された。

ダンスバンドの音楽におけるこのミュージシャンのキャリアは、ほぼ40年に及び、

1995年、キングは息子のエディの助けを借りて地元の市場でヒットした古いブラック・ビーツのダブルカセットアルバムを発売し、

そして、1997年の9月12日にその生涯の幕を閉じた。75歳だった。



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