第12章 ベナン共和国のイグナス・デ・スーザと、ガーナのブラック・サンティアゴス

故イグナス・デ・スーザ(=IGNACE DE SOUZA)は、1937年にダオメ共和国、現在のベナン人民共和国で生まれ、首都コトヌーで育った。

彼はその国で最初のプロのダンスバンドである、ジ・アルファ・ジャズでトランペットとサックスを演奏し、のちにガーナに移り、スパイク・アニャコルのリズム・エースに、そして、ザ・シャンブロス・バンドに、最後は、1964年に自身のグループであるブラック・サンティアゴスを結成した。

イグナスはガーナでコンゴ音楽を演奏した最初のミュージシャンであり、1970年までそこにいた。その後、彼はコトヌーに一度戻り、ラゴスへと渡った後に、彼のバンドはリッツ・ホテルのハウス・バンドとなった。

1975年後半、ナイジェリアの東部と西南部で行われたブラック・サンティアゴスのクリスマス・ツアーの折に、彼らがベニンシティにあるヴィクター・ウワイフォのクラブ・フォーハンドレッドでプレーしていた時に、私はイグナスと出会った。 以下は、1975年12月27日にベニンシティで行われたイグナスとのインタビューである。

ーーあなたはどのようにして音楽に興味を持ちましたか?

De Souza(以下、D) 私が若い頃は、文化的な方法で音楽を学んだ(すなわち、伝統的なフォン=Fon ミュージックを)。 学校では音楽が好きではなかったんだけど、学校を卒業した後、コトヌーにいた友達が、2年間ほど私に音楽をやらせたんだ。それから1953年のある朝に、私たちは地元の男性が開いた場所に行ったんだ。その男性はバンドを作りたいと思っていたようだった。 彼は楽器を持ってきて、どんなタイプの演奏をしたいのかと私に尋ねたんだ。

私はたくさんの楽器、ドラム、サックス、トロンボーン、クラリネット、そして他の多くを見た。 トランペットが2つあって「ヴァルブが3つしかなくて、演奏が簡単そうだから、トランペットをやりたい」と言った。しかし、彼らは笑って私にアルト・サックスを渡して、演奏する方法を教えてくれた。そして、私はそれを少しずつ、少しずつ、サックスを習得していったんだ。

バンドはジ・アルファ・ジャズと呼ばれていた。そして、すべてが終わった後で、彼らは私たちにも給料が支払われるだろう、と言った。バンドには、パリから来たテナー・サックスの奏者がいた。彼は銀行で働いていて、毎日音楽の理論的な部分を教えてくれたり、土曜日に私たちのグループで演奏したりしていた。

その後、マネージャーはナイジェリアから2人のミュージシャンを連れてきたんだ。1人はテナー・サックスのベビーフェイス・ポール、もう1人はトランペットのジール・オナイアだった。 ポールは私にサックスを押し付けるようだった。ところが、ジールが来たときは、彼がよりよくプレイする為の練習を楽しんでいるようだったので、私はトランペットに切り替えることにしたんだ。 ジールは私にトランペットを教え始め、私はサックスをやめた。それ以来、私はトランペットに熱中した。

クイックステップ、ハイライフ、ボレロなどのダンス・ミュージックを演奏した。 その時はE.T.メンサーが大流行していたので、私達は彼の曲のいくつかをプレイしていた。 それはプロのバンドで10人のメンバーがいた。

ーー当時、ベナンには他にバンドはありましたか?

D ダオメには、警察と軍隊によって編成されたオーケストラがあったね。 それまで国を支配していたのは、ご存知の通りフランス人であり、彼らは(ダンスバンドの)音楽を持ち込まなかった。軍のオーケストラだけがあった。 私たちには、ガーナへ行ってそれら最先端のダンスバンドをもたらしてくれるナイトクラブのオーナーがいたので、E.T.メンサーなどが演奏していたけど、ギターバンドはいなかったね。いくつかの村にはブラスバンドがあったよ。

ーーなぜあなたはアルファ・ジャズを去ったのですか?また、 その後は何をしましたか?

D アルファ・ジャズで全てがうまくいった後、マネージャーは私たちに演奏をやめさせた。バンド自体が止まってしまったんだ。だから、みんな自分たちのやり方を見つけなければならなかった。それで私は1955年にガーナに行くことを選んだ。そこでリズム・エースというバンドに加わった。ジールとベイビーフェイス・ポールは、私よりも前にリズム・エースに加わるためにコトヌーを去っていたけれど、私がガーナに到着した時には既に、彼らはラゴスに去っていた。私は1956年までリズム・エースで演奏して、その後に私はリド・ナイト・クラブ(=Lido Nightclub。アクラ)に行き、レバノン人だったシャヒム兄弟が結成したシャンブロス・バンドと呼ばれるバンドで演奏した。

レバノンの人々はたくさんのお金を稼いでいたのに、月末に彼らは我々にお金を払わなかった。ずっと私達は財布がなかったんだ。私は仲間達に、1、2年後に私達自身の楽器を買うために十分なお金を持つべきで、秘密の銀行口座を作り始めるべきであると助言した。なぜなら、彼ら(レバノン人)は私たちをバカにしていたからだった。

秘密がバレて、彼らは私に3ヶ月間演奏を止めさせた、しかし人々が私不在のバンドを見たとき、あまりうまくいかなかったようだった。当時(私がもたらす)フランスの音楽は、とてもお金を稼いでいたからね。

それで兄弟たちは私を呼び戻した。私はもし働いて欲しいなら条件があると言った。”一つ”、私が稼いでいた月額£9以上の給料を払うこと。”二つ”、毎週月曜日にバンドを休ませて欲しい、とね。

それで我々は契約を交わし、私は月に£15の給料を得た。私はいつも£10を貯金し、節約した。1954年から1960年の間にかけて、楽器を少しずつ買い始めた。それから1961年に私はチャチャのナンバー"Paulina"と、裏面のハイライフのナンバー"Patience is Best"を作曲して7インチ・シングルをリリースした。このシングル・レコードはヒットした。

私はレコーディングの時のバンドにシャンブロスを起用したが、名前をメロディ・エース(=Melody Aces)に変更した。私はDeccaと契約し、アルバムのレコーディングの後、 バンドのみんなに支払いをして、残ったものを貯金した。

幸運なことにレコードが大成功し、ロイヤリティで£700を稼いだので、Deccaから来た男に、お金はいらないから一連の楽器を売ってくれるよう交渉した。私は2つのテナー・サックス、1つのアルト・サックス、1つのトランペット、1つのギターを買った。すでにドラムと他の楽器は持っていた。Deccaから来た男は、私の残りの部分のバランスをとり、それは£350だった。演奏用の制服が必要な場合の為に、それらの材料さえも買ったよ。まだ誰にも見せたくなかったから、私は自分のベッドの下に楽器を隠した。1964年までに私の楽器はすべて揃って、リドのオーナーと内務大臣との間に問題が生じたとき、私はシャンブロスから抜け出す方法を見つけていた。リド・ナイトクラブは封鎖されていたから、T.U.C(労働組合協議会)に走らなければならなかった。私が報告したところ、我々はそれについて争い、彼らは期限内に支払うはずだった給与をすべてを支払ってくれた。私は合理的な給与を手に入れ、コトヌーに戻り、パスポートの作成を済ませたんだ。

ガーナにいたとき、どのような音楽を紹介するべきかを考えた。当時、ランブラーズ、アームド・フォース・バンド、ブラック・ビーツなどのダンスバンドがトップだったからだ。当時はアフリカン・ブラザーズ(エレキのギターバンド)のようなものはなく、実際、リド時代にはアンパドゥ(アフリカン・ブラザーズのリーダー)が私の下で働いていたよ。当時はたくさんの人が、音楽の理論的な部分を聞きたがって、私のところへやって来たんだ。

どんな音楽を打ち出してくかを考えたとき、ガーナにはコンゴ音楽のようなものがないことを知っていたから、ダオメからベーシストを連れて、コンゴ音楽を歌うことのできた二人の子らと一緒にトーゴ・ランドに行った。また、コンゴのレコードをたくさん持ってきて、アクラでそれらをうまく学ぶこともできた。そうしてブラック・サンティアゴスを結成し、大きな宣伝用のポスターや手形を作り、ラジオのアナウンスを行ってから、1964年7月11日にメトロポールの野外でランブラーズと一緒にライヴを開催したんだ。その日は大きく盛り上がり、ダオメ領事館の何人かを含む多くの大物も来ていたよ。入場料でほぼ500ポンドを稼ぐことができたのさ。


ーーバンドでツアーもしましたか?

D ガーナ中はツアーしていたが、1968年頃にフェラ・アニクラポ・クティがガーナにやってくるまではガーナの外には行かなかった。

フェラは、私の拠点だったレイルウェイ・ホテルでよくプレイしていた。私は1965年にレイルウェイ・ホテルのレンタルを始めて、多くのバンドがそこでプレイした。金曜日には、ウーフル・ダンス・バンドか、またはランブラーズがプレイしていた。1967年にジェラルド・ピノ(ハートビーツ)がいた頃、私は彼と彼のバンドをホテルに泊めたりもしていた。

フェラが良き友人になったとき、彼は私たちに数週間でもナイジェリアに来るべきだと言ってくれて、「君がそれを手配してくれるなら」と、私たちは言った。1968年、ラゴスのグラバー・メモリアル・ホールで彼との最初のショウを行い、翌日はスルール・ナイト・クラブ(フェラのアフリカ・シュラインの元祖)で演奏した。大盛況だった。その後から、時々ラゴスに行くようになったんだ。

ナイジェリア内戦中(ビアフラ戦争)は、北部のすべての州をツアーして、ガーナに戻る途中でコトヌーとロメで演奏した。アクラからわずか120マイルの距離にあるため、私たちはよくロメでもプレイしたね。

ーーガーナを離れたのはいつですか?

D 強制退去命令が出たんで、1970年にガーナを離れた。我々の周りの人々が、虐待されそうだったから、行かなければならなかったんだ。私のミュージシャンの多くはナイジェリア人で、オルガニストはフランコと呼ばれるプロのイタリア人ミュージシャンだった。

それでコトヌーに戻って、そこで音楽をやっていたんだけど、ガーナとは違っていた。そこでは、ガーナのように人々がショービジネスに熱心ではなく、ちょっと退屈だったね。

ーー10年前(※1965年頃)、コトヌーとロメで最も人気のあったバンドは何でしたか?

D ダオメでは、ジョナス・ペドロ・ダンス・バンドとエルリゴ&ヒズ・ロス・コマンドスがいて、すべてラテン・アメリカのリズムとコンゴ音楽を演奏していた。トーゴには、エリコ・ジャズ、ロス・ムチャチョス、メロ・トーゴ・ダンス・オーケストラがいた。

ーー今日(※1975年頃)はどうですか?

D 現在、コトヌーにはジョナス・ペドロ、エルリゴ、ポリリズミック・オーケストラ(オーケストル・ポリリドゥモ)、レ・アストロノーツ、ディスク・アフリーケ、そして自分のバンドがいる。

ロメでは、物事は少し良くなっている。私たちの人々がダオメで行っている政治のタイプの影響でね。ロメではバンドへの優遇を許可しないので、ミュージシャンは夜7時から11時まで演奏し、夜間外出禁止令のために閉める必要があるんだ。

現在、ロメにはウィルコメン・バンドと、ル・レーヴやマルキージャ・ノカ(=Marquilla Noka)などの、ナイトクラブのバンドがいる。ソウル・ミュージックを演奏するバンドではガーナからのバンドの子達がいるね。トーゴには多くのガーナ人がいるよ。

ーー英語圏とフランス語圏の国のダンスミュージックの主な違いは何だと思いますか?

D フランス語圏の国々では、純粋にアフリカのコンゴ音楽が好きで、他にもさまざまな音楽が好きだね。例えば、あなたが演奏するものは、何でも彼らは踊る。しかし、ここ(ナイジェリアを含む)英語圏の国では、アフリカの音楽が好きではないようだね。彼らは著作権とソウル、そして私たちの果実ではない、他のものが好きだ。フランス語圏の国では、常に一方通行で演奏することはできないんだ。アフリカの音楽を演奏する場合、彼らはそれを好むけどね。

ーーあなたのバンドにはナイジェリアとダオメアンのミュージシャンがいますね。コンゴのナンバーにセネガルのシンガーが。そして、ガーナ人の魂もある。-かなり国際的ですね。今後のプランは何かありますか?

D 私たちはコトヌーに拠点を置いているけれど、現在はナイジェリアのツアーに参加している(このインタビューの後、バンドはナイジェリアに残った)。東部ではハイライフは好かれているが、中西部ではそうではない。ファンクとソウルが好かれている。

ナイジェリアでは、ヴィクター・ウワイフォとジュジュのバンドが良いアフリカ音楽を演奏している。フェラには彼独自のスタイルの音楽がある。彼のアレンジは音楽的にも理論的にも非常に優れているけれど、バックボーンはジャジーであり、ジャズは私たちの音楽ではないので、まだヨーロッパだと感じている。

ガーナでは、アフリカの音楽を改善する多くの機会があるのに、ガーナのミュージシャンはソウル、ソウル、ソウル…ソウルを演奏するばっかりだ。気をつけないと、アフリカの音楽は失われ、子供たちは苦しむことになる。もっとアフリカの音楽をプッシュしていかないとね。



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