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山下賢二『ガケ書房の頃』文庫化に際して、私が空想した40年後の夏。(記・2021年夏)

 まだ図書館が存在してた頃、移動図書館という仕組みもあったと聞くが私の記憶にはない。図書館、しかも移動式……。そんな機能を実装できたら、旅する図書館ができてしまわないか。

 6月半ばを過ぎて梅雨が明けた。夏の始まりはここ半世紀でひと月近くも前倒しになったという。小学生の頃は7月上旬に梅雨が明け、終業式までは連日のプール授業だった。
 図書館旅の計画と長い夏への準備の日々に母から連絡が入る。祖父の蔵書の処分に困っている、よい手立てはないかと。祖父の本棚から児童書や漫画を引っ張り出し、板間に寝転んで読んだ夏休みの記憶。枕代わりの浮き輪。波打つ蚊取り線香の煙。蟬しぐれとかき氷器……。
 祖父は3年前に亡くなった。本は私が引き受ける、と二つ返事を送るが、図書館旅の事はまたもや切り出せなかった。

 島の祖父母の家を訪ねる。昨秋の三回忌には出れなかったし、ずいぶんと久しぶりだ。祖母は夏空の下で梅の実を干していた。梅干し作りも50年足らずでひと月早まった。と、なげくでもなくこぼしてから顔を上げ、おかえりと微笑んだ。私もただいまと笑顔で返す。住んだ家ではないけれど。
 独り暮らしの祖母を心配して、母の妹、私の叔母が近々島に戻ることが去る春の法事で決まり、祖父の部屋をはじめ台所などの改装がされていた。新しい床、明るくなったダイニングで紫蘇ジュースをいただく。
 赤紫の光がテーブルに染みる。祖母には図書館計画はすでに話してあった。自分もついて行きたいくらいと祖母。隣でスープカフェでも開きながら一緒に行けるかもと盛り上がるも、この歳ではどうかねぇ、と小さく微笑む。
 本は納屋の2階に移してあった。階下から祖母の声。ダンボール、集荷の郵便屋さんの連絡先を貼り付けてここに置いとくよ、郵便屋さんてゆっても機械が一人で飛んで来るんだけど。
 蝉がざんざん鳴いている。夏が伸びて蝉の寿命は延びたのだろうか。私はガタガタと窓を開け、暑いけどマスクに手袋、頭に手拭い巻きで本の山を紐解き始める。ざっと目を走らせたところ、地元の自然史・歴史物、植物・動物・地学など自然科学から人間の意識や哲学といった人文科学辺りへとその分野が広がっていた。そこへポツポツ国内外の小説が散在。音楽関連のタイトルも見える。
 亡き主の意識を記憶したままの付箋がひらひらしている本も。そんな一冊を開いてみる。「見えないゴリラ」……いきなり気になる小見出しではないか。心理学用語である「非注意性盲目」を証明する実験が紹介されている、50年以上前の話だ。今では古典的な心理実験なのかもしれない。でも私には初耳のエピソードで、素直に驚く。
 それはこんな実験だ。まず被験者は2分に満たない映像を見せられる。白黒2種のTシャツを着た数人が、バスケットボールのパス回しをする映像だ。被験者は「白シャツの人がパスする回数を数える」というお題を与えられている。つまり集中力の矛先を限定されている。すると、映像途中に入り込んでくるで明らかな異物(パス回しをするプレレイヤーの間を堂々横切って行くゴリラ)に気づけない。ある事象に注意力を集中していると、それ以外のハプニングを認識できない。これが非注意性盲目なのだそうだ。

 記憶の中でも似たような「抜け落ち」が起きてはいないか。例えば最近あった、小学校以来の友人とのやりとりだ。話題は夏休みのことから冬休みの思い出話へと流れてく。そこで友人は、そういえば……と告げた。君はクラスのみんな宛に書いた年賀状を、元旦の早朝、自転車でこっそり各家のポストに配達したことあったねと。何その地味なサプライズ、うそでしょう。いや、うそじゃないよ。せっかくのセルフポスティングなのに、そうと気づいた子はほとんどいなかったからがっかりしてたよ、君。……全く身に覚えがない。友人がいたずらに創作思い出話をしているのではと疑った。
 前出の実験でも趣旨を説明された後で、再度見る映像に堂々とゴリラが横切ると、これはさっきとは違う映像だと言い張る被験者すらいるという。映像ではなく自分の経験でさえ、記憶の中で目配せされなければ抜け落ちてしまう。自分の過去とはいわばその残り物だ。私の見覚えている世界とは何だ。穴だらけの世界。何を信じたらいいのか。

 積まれた本をひと山ひと山解体し、選別、ジャンル分け、箱詰めを進めていく。さて次、と手をかけた拍子に奥の文庫山がゆらり。ガサーッ。崩壊して現れた表紙に親近感を覚えるタイトルがあった。『ガケ書房の頃 山下賢二』。
 ホコリの舞が落ち着いてから拾い上げる。
 十年足らず前のこと。アーカイブエンジニア、昔の図書館司書の延長にある資格取得のカリキュラムを専攻していた。その現代和書出版史の中で「ガケ書房」に出会った。出版史の中では、書店であるガケ書房は一筆触れられているだけだったが、私はその数行を素通りにできなかった。
 ガケ書房に関する資料は豊富だし、店主による著作も少なくない。その一つ『ガケ書房の頃』は、40年前に文庫化された「完全版」がデジタル版ですぐに手に入った。読んでみて驚く。何とそこに祖父が登場するのだ。さっそく本人に問うと、本には書かれていない山下氏との逸話をいくつも聞かせてくれた。その中でも繰り返し語られたのが店名についての一幕だった。その耳に引っかかる店名を誰がつけたのか。
 祖父はガケ書房開業を手伝い黎明期を共に過ごした。数年後、書店界にも名を馳せた頃、とあるトークショーで祖父と山下氏はお互い「自分がガケ書房の名付け親である」と主張したことがあった。それぞれの記憶を開陳して検証し「ガケ」は祖父、「書房」は山下の発案、と公衆面前で一応の決を出した二人だったが、その後もこの件はくすぶったという。二人が共に濃く交じって過ごし、店名に深く思い入れたがゆえの記憶の混沌、混成……。

 『ガケ書房の頃』の前半、彼らの自主制作雑誌が完成するくだりに「この本を全国的に売って、生活していくことを僕は夢想していた。インターネットのない時代の甘い無謀な夢。三島は僕の野心に驚いていた」とあった。ふと一つの想いがよぎる。祖父は「驚いていた」わけではなく、イメージが湧かなかったのではないだろうか。私の知る祖父は、山下氏のように夢や野心を描かないタイプの人だったし、「自分はこれで身を立てる、食って行く」ということに関心を払わない人だった。飄々と今を生きることに憧れ、追求し続けた人だったのでは、と思うがこれは想像でしかない。けれど私は私の中に、その質を受け継いでいるのを感じる。
 アーカイブエンジニアを目指すと父に話した時、やっとお前なりの「その道」を見つけてくれたかと安心した様子だったが、ここで図書館旅計画を打ち明ければ私がまた逆戻りをしていると忠告を受けることだろう。まだ書店も新刊本もあった時代に生きた父だが、彼に言わせれば実書籍は現代遺産、非合理的な逝ってるアイテムだ。
 現在、私たちは日常で書籍を手にすることは原則、無い。アーティストが書籍など印刷物のスタイルで作品を発表する事はあるが、書籍一般はすべてデータに置換され新刊本・雑誌・新聞など出版物みなデジタル版となり、図書館という場も本といっしょに消えた。生活の中に本があった時代、人々にとって読書はどんな時間だったのだろう。娯楽や知識を求め、本の重みと紙の手触りを感じつつページを手繰る時間。貸したり借りたり、買ったり贈ったり、どこかで置き忘れてきたり、拾ったり……。本から生まれる経験をなくした現代人は何を失っただろうか。

 この数十年でAIとITは進化しまくっている。人々が求めている以上に、それ自身で進化を続けるようにして。車両用ドライブレコーダーから始まった技術は、ライフレコーダーの運用にまでこぎつけようとしている。網羅収集蓄積されるあらゆる情報が、人々の需要を算出しながら刻々と供給され、我々はフォローしレスポンスし新たな情報へと還元する。あたかも人類の生命機関のような、この絶え間無いデータサイクルによって社会は転がり続けている。かつて穴ぼこだらけだった世界はデータで埋め立てられ、ディバイスの向こう側で欠落も余白も無く整地されて広がっている。

 情報の奔流からドロップアウトする精神もまた浮き彫りになった。その生き様をいつしかフィールダーと呼ぶようになった。ベジタリンが個々様々な動機や方法論を抱いているように、データレスなライフスタイルも様々だが、「読書」を密かに支えている一翼がフィールダー達だ。読書は人生の余白を広げ豊かに耕すという考えからだ。
 図書館という風呂敷を各地転々と広げながら、私もまたフィールドを耕してみたい。山下氏と祖父が「ガケ書房」の看板の元でひと時を相交えたように、図書館に行き交う人々に出会いたい。各々が蔵書も携え、人々の間に本も行き交うのもいい。閲覧席でページを繰る人。その背表紙の題名が目に入る瞬間。訪れた人の腕に抱かれた興味深いタイトル群。穴だらけの世界を補うピースはデータではなくていいはず。

 いけない、また妄想に浸ってしまった。一服入れようという祖母の声に応えて私は腰をあげる。自家製番茶を乗せた、廃材つぎはぎの庭の机は祖父の作。蔵書を引き受けてくれてありがたいよ。紙は日焼け、メモだの傍線の書き込みも多くて業者も引き取らなかったから。あの人は栞代わりに項の角を三角に折りまげる癖があって、その折り筋も本の価値を下げたね。祖母は蟬しぐれに抗するようにそう力説した。
 晩になって母に連絡を入れた。祖母の様子と今日の進捗を伝え、書籍に囲まれた一日の興奮を勢いにして図書館計画を話す。強く心配されるのを想像して身が強張ったが、意外な反応が返ってきた。それなら棚からボタモチだったのねと嬉しそうに笑ってからこう続けたのだ。計画はきっとうまく行く、だってあんた小学校の卒業文集(すでにデジタル版だった)で将来の夢の欄に、もう廃止寸前なのに「図書館で働きたい」って書いてたから。え? 全く身に覚えのないことにまた驚いた。記憶には穴ぼこがあっていいのかもしれない。もう何も信じなくても、ただただ行けばいいのかもしれない。

※写真で参加した山下賢二著『ガケ書房の頃』(夏葉社)は、2021年秋に筑摩書房により文庫化、翌2022年3月には実際に電子書籍(筑摩書房)として提供開始されました。


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