歴史篇3『大学時代②三人の処女3』

21歳の正月、私は久しぶりに帰省した。年3か月ほど勤めている「タブラオ・ロサ」では相変わらず信任を得て、休みも取りにくい状態だった。大学は、もう安保条約も自動継続になっているのに、まだバリストを続けていた。
 もうすぐ22歳になるのに、このままでいいのか自信がなかった。だから丁度開かれた中学の同窓会に出席してみた。だがそこには、私のようにハグレている者はいなかった。みんなそれなりに進路を見出し、歩き始めているようだった。
 会もお開きになる頃、里恵が寄ってきて話がある、と言う。里恵はグループ交際6人組の一人で、卒業してからは美容師になっていた。
 話とはたぶん、秋口に結婚した春美のことで責めるつもりだな、と思ったが車に乗せてドライブしながら聞くことにした。当時の私は、まったくの下戸で、コンパなどで飲まされると、必ずぶっ倒れていた。だからちょっとした距離があった会場に車で来ていたのだ。
 どこへ行くともなく市街地を離れながら話すと、春美とは家が近いにもかかわらず、卒業後はそれぞれの環境の違いもあって、交友はなかったようだ。結婚も近所の噂として知っているだけで、私との肉体関係など知るはずもなかった。
 里恵の話とは自分の結婚のことだった。人通りのない路肩に駐車して聞いてみると、祖父の選んだ男と月内に結婚させられるらしい。相手は15以上離れた髪の後退した短身の職人という。里恵はどうしても好感を抱くことができないと訴える。それでは断ればいいんじゃない、と気楽に返すしかない私。
 だが、里恵は幼くして父親を亡くし、母親と二人になったのを父親の父に引き取られた。だから育ての恩もあり、昔気質の癇癪持ちの祖父に逆らえない日々を送ってきたようだ。
 それで私たちと遊ぶと楽しそうにしていたのだ、と得心した。里恵は160少しくらいの長身で、中学時代はいつも髪を三つ編みにして両肩に垂らしていた。クリっと丸い目と痩せぎすで長い手足から、仲間内ではオリーブで通っていた。
 話を聞くうちに、私は義憤に駆られてきた。
 里恵の手を取り、そんな結婚したって幸せになれるはずがない。勇気をだして断って、ポパイが現れるまで待つんだ。きっとオリーブにふさわしい人がいるはずだ、と励まし強く抱きしめた。
 そうなると、次はキスで乳房をまさぐりと、これはもう習性で本能の導くままだ。
 里恵は吐息を荒げ、座席にグッタリともたれかかって、抵抗の素振りもない。
 私は黙ってモーテルへと車を走らせた。抱き寄せるようにして、モーテルの部屋に連れ込む。またキスやネッキングをして抵抗を封じておいて、次々と着衣を脱がせ全裸にしていく。
 当時は、今のようにセックスの前には体を洗って清潔にして、なんていう習慣はなかった。それはそうだろう、瞬間湯沸かし器なんてなかったのだから、一般的な家庭ではヤカンや鍋で湯を沸かし、体を拭う。風呂を沸かすのにはマキやガスで30~40分かかっていたと思う。
 だから初めての女性、しかも処女の可能性が限りなく高い時には、清潔さを求めるよりもスピーディに、道徳観念と防御本能が目覚める前に進めなくてはならないのだった。
 布団に横たえた里恵の体は、白く清らかだった。電灯の光から逃げるように顔を隠した腕の下から覗く、あるかなきかの腋毛、Bカップくらいの丘の頂点の薄ピンクの乳暈と乳首、陰阜を飾るのにも足りない細く茶色い草むら、ほっそりと長い脚。オードリー・ヘップバーンの裸身はこのようなのではないか、とその時思ったのを覚えている。
 これまでの女たちとは違っていた。猛々しく淫らな毛叢、ふくよかで官能的な肉の抵抗――。
 そのせいなのか、どうか。ひっそりと横たわる里恵の足を開かせて、濡れ光る奥の薄い肉襞の間に処女性を確認しても、高ぶらないのだ。いやペニスは奔放に高ぶっているのだが、気持ちの奥で、やめといたほうがいいよ、と呟くもう一人の自分がいるのだった。
 結局私は肉欲を断ち切った。里恵にもう一晩考えるように言い、次の日は東京に帰り翌日の店の新年開店に備えることになっていたので、その前の3時に気持ちが変わらなかったら、喫茶店に来るようにということで、彼女を家の近くまで送りとどけた。
 私は里恵のはマリッジブルーなのではないかと感じていた。私に会ったことで奥底に秘めていた感情を吐露したが、実際には祖父に逆らうことまではできないのではないか、と思っていた。
 だが、3時に待ち合わせの喫茶店に里恵は思いつめた表情で現れた。こうなっては「義を見てせざるは勇なきなり」で、嘘つきの臆病者にはなりたくなかったので、里恵を連れて家に伺った。
 古い民家で引き戸を開けると、3畳ほどの土間にカマドがありマキが燃えていた。小上がりの障子の奥が居間で、私たちはそこで話をすることになったのだが、それは話し合いとは言えないものだった。
 私の意図を知った祖父は怒り狂って「お前は俺が進めてきた縁談をここまできてブクにするのか!」と何度も叫んだ。私はブクという言葉を知らなかったが、おそらく方言で、ぶっ壊すことなのだろうなぁ、と案外冷静に受け止めていた。
 本来私は寡黙でおとなしい質なのだが、腹が座った時には人が変わる。
 母親は娘の気持ちは充分承知しているので、オロオロするばかり。そこへどういうわけか婚約者まで訪れてきて、事態はさらに泥沼化。
 だが、婚約者の目には諦観があった。彼も10歳以上離れている里恵に好まれてはいないのは承知だったのだろう。しかし、結婚して一生懸命尽くせば、いつかは好意を持たれるようになるのでは、とはかない期待を抱いていたのではないか?
 煮え切らない他の二人に、祖父はさらに激高して里恵に掴みかかろうとしたので、私は里恵と共に家の外に脱出した。曇天だった空は、いつの間にか雪になっていた。
 すると戸が開き、ナタを持った祖父が飛び出してきた。私は里恵の手を掴んで走りに走った。表通りまで逃げて、来たタクシーに飛び乗って、やっと生きた心地がした。
 さてこれからどうするか? 雪の中の逃避行をして東京に駆け落ち、ではあまりに恰好よすぎだが、そうしたところでうまくはいかないだろう。里恵と話した結果、時間を置いて冷静にならせるため、近くの駅にいる親戚に身を寄せて相談するのがいいとなって駅まで送った。
 私もそのまま東京に向かいたいところだが、狭い町のことだから明日には、もう噂になるだろうから、家に帰って説明しておいたほうがいい、と知恵を働かせて家に帰った。
 玄関に入ると、なんともう里恵の祖父と母親が来ていた。私の父と母は「またやってくれたな」というような目つきで睨んでくる。そこでまた、昨日からの経緯をモーテルの部分は省いて説明することになった。
 親たちの知りたいことは、恋愛関係と肉体関係があったのか、どうかだったから、私
は胸を張って、そういうことではなく彼女に同情して、義憤に駆られ正義だと思ってやったことだと言い張れた。祖父の怒りから逃がすために、すぐに親戚に送った判断も好感度を高めたのだろう、それ以上のお咎めもなく、二度と里恵には会わないように釘を刺されただけだった。
 縁談はブクになり、里恵は数年後に弁護士と結婚したと親から知らされた。やっとポパイに会えたのならいいのだが、がその時の感想だった。雪の中、ナタを持ったお爺さんに追われる夢は、その後も時々見た。
 もしあの時あのモーテルで、里恵を犯していたら……田舎のことだから無理やり結婚させられて、違う人生を歩んでいたかもしれない、と時に思う。
 女性に対しての「虫の知らせ」は、このあとも時々感じ、それがあったので千人以上の女性関係でも、病気や事件、揉め事に巻き込まれなくてすんできたのだろうと感じるのだ。

東京に帰るとチーフウェイターとしての平穏な生活が待っていた。そのままその日々は続くかと思われた。だが2月、ロサが交通事故で亡くなった。そして遺族の会議で「タブラオ・ロサ」は、閉店することになった。
 これからどうしたら、と考えていた時にバリストが解除され、4月から大学が平常に戻るという知らせが届いた。これも運命の導きだと思い、大塚のアパートから鶴川駅近くの二軒長屋に移り住んだ。もしロサが生きていたら、こうは簡単に気持ちの切り替えはできなかっただろう。
 しかし、1年の時真面目に大学に行って44単位は取っていたが、卒業にはあと80単位必要だった。どう考えても1年で取れる単位数ではない。考えてもしょうがないので、取れる授業は全部登録した。毎日朝から夕方まで教室のはしごだった。
 その裏で、腐れ縁の学生運動のために影の救対もやらされていた。当時は過激派狩りがおこなわれていて、公安に目をつけられた人間を匿い逃がす組織とは言えない組織があった。
 ある時、「誰々の紹介で来ました」と言って人が現れる。そうすると宿と食事の世話をする。だいたい3、4日すると迎えが来て、次の所に移動するのだ。名前も年齢も知らないので、尋問されても答えようがない、という草の根運動だった。
 二学期も終わりになると、私は絶望していた。卒論は提出したものの、どう考えても20~30単位足りないのだ。もう一年留年させてくれ、とはさすがに言えなかった。
 そこで私は転身を考えた。整体師だ。もともと私は凝り性の両親がいたので、幼い時から背中に立ったり、握力が強くなるとマッサージをしてお駄賃をもらっていた。「ロサ」の時もフラメンコダンサーを揉んでやって、おおいに称賛され喜ばれたものだ。
 私の計画は、まず整体を勉強し、ある程度できるようになったら、「ロサ」で知り合ったスペイン人に身元引受人になってもらって、踊りを習いながら整体で生活をしていく、というものだった。なにしろ世の中はヒッピー文化最盛の時だったから、世界放浪は若者の夢だった。
 暮れに帰郷した私は、両親に現状と夢を話した。もう私の奇矯な振る舞いに免疫ができている両親は、「まぁやるだけやらしてみよう、どうせ言うことを聞く子ではないのだから」と思ったのか、知り合いの整体師を紹介してくれた。
 正月が終わると、整体師に入門し、共同生活に入った。完全な徒弟制で、当時は私を含め5人の弟子が寝食をともにしていた。朝5時起床で清掃と食事の支度。私より年下が2人いたが、もちろん兄弟子だから、ペイペイ仕事は全部こっちにくる。便所掃除から、冷水での米とぎ、寒風の中での玄関掃除。
 開業するとお客に気を配りながら、立ったまま先輩の施術を見ているだけだ。休憩は奥さんが作ってくれる昼食と夕食を食べる時だけ座れるのだった。一番困ったのは閉業後は自由時間なのだが、先輩や師匠が外出すると帰ってくるまで、寝れないことだ。眠いのを我慢しながら、整体の本を読んで学習する。睡眠時間3時間なんてのが時々あった。
 師匠や両親は、途中で耐えられなくなって逃げだすと思っていたのだろう。だが私は、一人でスペインに行けば、これ以上の苦労があるだろうと覚悟して踏みとどまった。
 一か月半ほどして、自分なりにやっていく目途が立ってきたので、東京から撤退の準備に上京しなくてはならなかった。
 ついでに大学に行くと、偶然ゼミの担当教員に廊下で会った。すると「君、卒業できるよ」と、予想もしていなかったことを言うではないか。ようするに4年生の大半が留年すると、定数オーバーで新入生を入れられない。入学金が入ってこない。だから騒動を起こした4年生には速やかに卒業してもらおう、となったのではないか。
 こうして思いがけず大学卒業の肩書きをもらえることになって、私の思いは千々に乱れた。なにしろもう2月の後半である。普通の大卒雇用などとっくに終わっている。
 どうせ田舎に戻れば大卒整体師の道が待っているのだから、ダメ元でず~と未来に希望していた道にトライしてみることにした。それは三崎書房が発行し、定期購読していた「エロチカ」の編集者だった。もちろん和光大学のような新設大学を卒業したって雇ってもらえるはずがなかったので、スペインに行き、向こうで何年か生活して「フラメンコのエロス」だとか「フラメンコダンサーの性」というような記事を書いて、ライターとして接触してから編集におさまるという遠大な計画だった。
 それをショートカットして試してみよう、という気になったのだ。
 10円玉をいっぱい握って、公衆電話から電話した。胸はドキドキ脈打っている。電話を受けた人に、思わず「あの、社長と話したいんですけど」と言ってしまってから、自分で後悔した。いきなり社長はないだろう、まずは人事じゃないの、と突っ込んだ。
 だが、電話口の人は「はい、待ってくださいね」と優しい声で言う。そして「林です」と、本当に社長が出てきてしまった。
 それからあとは何を話したのか記憶がない。おそらく熱く「エロチカ」への思いや自分の卒論(エロティシズム)を語ったのだろう。そして次の日の2時だったら空いているから会社に来るように、とまさかの面接許可をもらったのだ。
 次の日、住所をたよりに行ってみると、その区画にはビルがなかった。通りを間違えたかと探してもない。また戻って番地の所に行くと、そこは薄汚いしもた屋だった。出版社というからには格好いいビルの中に入っているもの、と勝手に考えていたのだ。ガラスの引き戸を開けると、土間の上に書籍が乗って机がある。入り口横の床を張って一段高くなった所に机が二つ並んでいて、それが社長と経理の席だった。これではちゃんとした大学向けの求人活動をしていないだろうから、私の熱意の食い込む余地はあるなと感じた。
 林社長は近くの喫茶店に誘ってくれて、私たちは1時間くらい話をした。話のあと社長は「明日からでもいいから来なさい」と言われた。私は準備もありますから1週間ください、と冷静だったのを覚えている。
 それからが大変だった。大学を中退して整体師になると、東京の住処の引越しにいった息子が、大学を卒業しただけでなく、出版社に就職して帰ってきたのだ。その間、わずかに4日。
 ゴタゴタがおさまり、三崎書房に初出社したのは、閏年だったので2月29日だった。







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