歴史篇4『三崎書房時代』

三崎書房に入って、すぐに「エロチカ」編集部に配属――というのが甘い考えだったいうのは、「淑女篇2 北国のお尻」で書いた。
 まずは本の流通を知りなさい、というので営業に配属され、毎日が倉庫の整理や取り次ぎへの納本、時々書店周りという感じで過ぎていく。しばらくすると、このまま営業部で飼い殺しにされるのではないか? そう言えば面接の時、車の運転ができるか、しつこく聞かれたけど編集には車は必要ではないのにな、と疑心暗鬼さえ湧いてきた。
 一番こたえたのは、収入だった。なにしろ大学時代には、仕送りやバイト代で月5万円以上あったのが、額面3万3千円の給料だけになってしまったのだ。その内、2万円くらいは家賃電熱費に消える。
 一方的に同棲を解消した真弓は実家に戻り、月2回ほど私の性欲処理の相手をしてくれつつ、家賃の一端を助けてくれた。そんな時には元の素直な奴隷に戻り、被虐の悦びにのたうつのだった。
 まだ私たちには愛が残っていた。だからいつかは真弓が帰ってくると信じていた。
 その頃、社長が「公安にマークされているから気をつけろ」と打ち明けてくれた。公安に呼び出されて聞いた話では、神田周辺にテロリストが潜伏しているという情報があって、その苗字が私と同じだったらしい。十数人いた私と同じ姓の人間を尾行調査したが、これという手掛かりは得られず、最後の手段で会社に圧力をかけて、私の動きを見ようという作戦だったのだと思う。
 当時は落ち武者狩りのように、学生運動活動家の勤め先を狙ってのイヤガラセが起こっていたのだ。ふつうだったら、なんのコネもない新入社員など、公安の恫喝にビビッた経営者に首にされていただろう。だが林社長は京都大学を出たインテリであり、ワイセツ本裁判を起こすような反骨の人だったので、私は救われたのだった。
 半年ほどたった頃、急に社長から、今度創刊する「セクシカ」の編集部に出向するように命じられた。出向先は品川の印刷所の一室で、そこを借りて外部の編集者が創刊する「エロチカ」の姉妹誌の助手をする、という役回りだった。
 編集について何も知らない私に何ができるのだろうかと、行ってみると、まだなんの準備もできていなかったのか、私は来る日も来る日も鳴るでもない電話番をしつつ、「編集入門本」を読みふけるだけだった。
 やっと仕事を与えられたのは、なんと「清水正二郎」の原稿取りだった。
 中学時代からこっそり「精力絶倫物語」とか、海外女性漁り話を読んでいた(歴史篇2 幼少年期 参照)。「世界秘密文学選集」で海外のポルノを紹介し、「O嬢の物語」を初めて読ましてくれたのも「シミショー」だった。
 その憧れの作家に会える――私は心震わせながら池袋の清水宅に向かった。
木造二階建ての古めかしい家の引き戸を開けておとなうと、妙齢の女性が出てきた。
色気があふれている和服の美しい人だった。その人が「先生」と声をかけると、玄関脇の階段から「先生」が降りてきた。ドテラを着ていたが、それは著者近影で見慣れた顔だった。
 自伝小説と思われる文章の中に「私は毎日ビフテキ(ビーフステーキ)を食べるので、顔が脂ぎっていて、その脂が乾き、ポロポロと落ちる。そのくらいパワーがないと海外の女性とは太刀打ちできない」というようなことが書かれていた。
 ビフテキなど食べたことのない時代に、どれだけ羨ましがり、尊敬したことだろう。その脂ぎった顔が目の前にあったのだ。
「シミショー」を見、和服美人を見、本来なら渡された原稿の枚数や文章の欠落を確かめなければならないのに、恐懼感激して家を辞した。
 その「シミショー」が10年後くらいに「胡桃沢耕史」の筆名で直木賞を取るなど想像もしていなかった。
「セクシカ」で覚えているのは、その原稿取りのことぐらいだ。1か月もしないうちに、これまた急に「エロチカ」編集部に配置変えになって、三崎町の会社の近くの木造アパートの2階の8畳間くらいのところに5つの机と椅子が押し込まれた部屋に通うことになった。
 12月に出される増刊号の人手が足りなかったからだろう。それは海外のポルノ写真や日本のエロ写真を切り張りしただけのお手軽な本で、編集初心者の私でも、まだ巷にヌード写真が溢れていないとは言え、こんなモノ作りでいいのか疑問に思ったものだ。
 しかも、1ページ空きがでたというので、先輩編集者から「君、原稿書いて埋めてくれない」と、いきなり1ページコラムを任されてしまった。それが「SM特集」の前だったので、「SMについて書けば」と。人生初の出版物、それも自分が編集に関わったものに載る原稿が「SM物」になってしまったのだ。
 これを運命のイタヅラと言わずして、何と言ったらいいのだろう? 「選ばれし者の恍惚」とか、卒論の「エロティシズム」を駆使してなんか書いたと思うが、青臭い言葉の羅列だっただろう。
 増刊の編集を終わった私を待っていたのは、さらなる驚愕だった。
 息を継ぐ暇もない数日後、私は社長に連れられて、3人の男と会わされた。それは紀田順一郎、荒俣宏、鏡明の3氏だった。残念ながらその時まで、3人とも名前を聞いたこともなかった。 
 林社長の話とは、3氏が監修して「幻想と怪奇」という雑誌を作るので、その編集をしてくれ、と言うのだ。
 とんでもない無茶振りだ~、と思いながら黙って話を聞いているよりなかった。まさか私はまだ編集2か月くらいの経験しかありません、とは社長の面子を考えると言えない。
 なんで私なのか? 三崎書房には私以外に4人の編集者がいて、みんな5年以上の経験者だった。
その中で、なんで私が……。たぶん皆に断られたのだろう。「エロチカ」と言えば官能誌の中でも一線を画したステータスがあり、有名文化人や作家が寄稿していた。だから他の人は離れがたかったのではないか?そこで何も知らない私に白羽の矢が立った、のだろう。社長としては、SFやミステリーが好きと言うなら、なんとかこなしてくれるだろうと、安易に考えたのではないか。
 ところがこの分野はSF・ファンタジー・ミステリーの中でも、アカデミックでマニアックな人たちが狂喜するような分野ではあるが、一般人気はないのだ。事実、創刊号のリストを見ても私の知ってるのはブラム・ストーカーと橘外男ぐらいだった。
 しかし歯車は回りはじめてしまった。
 社長のお供をして鎌倉の澁澤龍彦氏宅にも伺った。厳かな洋館、応接間に居並ぶ蔵書の美しさ、奥様の知的な妖精美、主人の白い肌。原稿要請は断られたものの、私は斯界随一の「エロスの巨匠」に会えただけで幸せだった。
 そしてなんと澁澤氏とともに、あの「血と薔薇」を編集しデザインした堀内誠一氏が、「幻想と怪奇」の表紙を手掛けてくれたのだ。
 私は隙間風が入ってくる寒い編集室にほとんど泊まり込んで、慣れない仕事に没頭した。そして本が届いた。それは私のような者が作ったとは思えない光輝を放っていた。
 その時、会社に行っていた先輩が帰ってきて「会社が潰れたようだ」と告げたのだった。




 
 

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