ツイッターの自己責任論がクソ

最近子育てがつらいというツイートに「子育てがつらいなんてわかりきったことなんだから、産まなきゃよかったじゃないか。自己責任」というようなリプがついているのを見かけた。伴侶に嫌気がさしているとかいう愚痴ツイートには「そんなやつと結婚した方が悪い。自己責任」とつく。

会社や業務についてしんどいって話をすれば「そんな会社に就職したほうが悪い」ってなるし、就活してて内定取り消されたって嘆くと「そんな会社を就活対象にした方が悪い」ってなる。

クソか??????????????

「自己責任」って言ってくるやつほんと嫌いだから、クソだと思う理由書いていこうと思う。

予測可能な不幸をわざわざ選択したという指摘

僕だって「そりゃ自己責任だろ」って思わないことがないわけじゃない。例えば、僕は田舎っちゃ田舎ってところに住んでるのだけど、わざわざ上京して満員電車に苦しんでる人を見ると「僕はそれが嫌で東京で住むのなんか絶対やだ!って思ったよ?通勤ラッシュの電車に一回乗ればそのつらさなんて事前に分かったじゃん。今更じゃ~ん?地元戻る?」と思ったりする。

そういう自分の意地悪な気持ちと照らし合わせると、この自己責任論には「その不幸は予測可能だっただろう?」というような嫌味が含まれているような気がする。僕らは昔に比べるといろいろと自由に選べるようになった。そしてその選択にはその先の未来を予測する力が必要だ。つまり、「選択したうえで不幸になったなら、それは君の未来を予測する能力が欠けていたからだ」という指摘なのではないだろうか?

でも、僕は未来の予測というのは本当に難しいと思うのだ。どうしてか「そんなの予想できて当然」とのたまう人が多いので、僕が予測は難しいと思う理由を言っていく。

理由①選択の時点では見えない情報がある

「結婚する前はいい人だった」とか「採用担当者はすごいいい人だったのに…」なんて話はよく聞く。いずれも、「事前に判別しろ」というのはかなり難しいと思う。なぜなら「決断後にしか発現しない欠点」があるからだ。自分が恋人ではなく伴侶となった瞬間相手が態度を変えるなら、それは恋人の時点では気づけない。自分が就活生ではなく開発部所属になった瞬間対応する人が変わるならそれは採用時点の人間を見ててもわからない。

これを防ぐには、事前に決断後に欠点が発現しないかどうかを調べる必要がある。一つは直接相手に聞くという方法がある。しかし、たいていの人間は疑われると気分が悪くなる。この嫌がられる心理をわかっている普通の人たちは、相手に疑うような質問をぶつけることそれ自体憚られるだろう。相手の気分なんざ知ったこっちゃない!と、嫌われ覚悟で聞いてしまうと自分の印象を悪くし「結婚できなくなる」「内定をもらえなくなる」といったそもそもの選択肢すら失う場合もある。かなりリスクの高い方法だと思う。

もう一つは、第三者から聞いたり、類似の状況から推理するような方法がある。例えば親御さんへの対応を見て、家族への接し方を推察したり、オフィスの雰囲気を観察したりやOBからヒアリングするなどだ。ただこれは推測の域を出ないし、相手が宣言してくれたわけでもないし、自分が勝手に判断しただけで不確実だ。

そして、両方とも自分をよく見せようとした相手が演技をしたり嘘を言う可能性もあり、それを見抜く必要がある。そこまでやろうとすると莫大なコストがかかる。

コストを無限にかけたら成せるはずだというのは、バカの言うことだからな!?

理由②実体験でなければわからないしんどさがある

「子育てが意外と大変だった」「雪かきがこんなにしんどいなんて」というのは、実体験を伴わないとわからないものだ。こういったものは、そのしんどさを事前に推し量ることが難しい。

①実体験ができる機会はほとんどない
②継続することにしんどさの所以があるので1,2回の経験じゃ経験したことにならない
③人によって感じ方が違う

どれかに当てはまるやつは、実体験してみなければわからない場合が多い。これらはしんどいという情報が事前にあったとしても、いまいちそのスケールがわからないことが多い。しんどくないという人もいるし、1度や2度の経験では自分は大丈夫だったなんてこともあるので、「しんどい経験談」「しんどくない経験談」が混在する。特に子育ては実体験が無数にありまくるので、本当のしんどさというのが予想しづらい(みんな出来ているんだからできるだろうという心理も働いてしまうこともある)

予測が難しいのに選択した人を責める"選択しない人"

以上より、僕はそもそも予測が難しいと思う選択はたくさんあると思う。そういう選択に対して、「予想できただろう?」という意味合いで、自己責任をかざしているやつが本当にむかつくのだ。自分はそんなに完璧な予測ができるのか???と。

でも、自己責任論をめちゃくちゃ強く言える人間ってのは、そもそも選択してない可能性がある。選択していないから、自分の予測の正しさなんて測ったことないし、自分の予測の正しさで勝負したこともない。端的に言えば、経験が足りない。

僕もよく冗談で「カーリングで負けたことがない」というのだけど、それは当然カーリングをやったことないからだ。やったことないことでは、失敗したことも、負けたこともない。カーリングの才能で馬鹿にされる隙もないワケだ。それと同じ要領で、自分に経験の足りない分野だからこそ、偉そうに発言をしているのではないか?と僕は常々疑っている。

予測しなくてもいい立場の人間が、「お前の予測は不十分だった」となじっているのだとしたら(というかそう思ってるんだけど)クソほど腹立つ。

いわなくてもいいのにわざわざ言う

予測が可能であっても自己責任論を振りかざす理由にはなりえないのではないかとも思う。そもそも「完璧な選択」なんてものはないのだし。

どんな選択もすべての点においても満点ということは無い。みんな自分の重視する点と対象を見比べながら、欠点もあることをわかりつつ選び取っている。そういうのに対してわざわざ「自己責任だ」という理由がない。

正面から解釈すると、わざわざ自己責任と指摘するのは「あなたの責任であるから我々がリソースを割いてその不幸を是正することはできない」という意味合いだと思う。社会の一員として意思表明をしてくれたのだと思うが、公的なサービスを望んでいるとは一言も言ってないツイートにまでくっついている。自分に助けを求められたと思ったのだろうか??そこまで思い込めるならそのまま優しい言葉でもかけてあげればいいものを…。

言ってやりたかっただけだとすると、単なる加虐欲だ。
それは、普通の倫理的にも悪いことだと思うので、もうやめてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?