僕は自分で自分の機嫌を取れず拗ねがちである。なんで?どうしたらいいの?

これはただの自分語りで、僕のための文章にしかならないと思う。いつかこの欠点を克服できる日が来ると信じて、今の自分の考えをここに書いておく。

自分でコントロールできない負の感情

「自分の機嫌くらい自分でコントロールしなよ」という発言がツイッターでバズったことがある。僕にとってそれはグサリワードだった。僕にはそれがうまくできていないのだ。紹介しようと思っていたお店がその日に限って定休日だったり、テストの結果が思ったよりも悪かった時、自分の不注意で社員証を無くしたとき、僕はいとも簡単に不機嫌になる。

グサリワードは全くもって正論だ。不機嫌を表して、他の人に慰めてもらおうだなんて図々しすぎる。自分が「周りの人」だったら、そんなやつとは絶対に友達にならないしお近づきにもなりたくない。でもみんな、そういう苦しい負の感情を抱えたとき、一体どうやって自分の機嫌を取っているのだろうか?うまくできない僕にはわからない。

負の感情は胃もたれや食中毒のようなものに似ている。悲しいことや悔しいことがあるとしばらく腹の中がモヤモヤしてしまう。時間が解決してくれるものもあれば、一度食べたきりアレルギーになってしまったものもある。

「なんで嫌な気持ちになるのか?」「どうして消化できないのか?」「消化できないとどんなことが起きるのか?」をできる限り言葉にしていこうと思う。

消化できない負の感情たち

負の感情というのはいろいろな場面で発生するものだけれど、どの感情も消化できなくていちいち拗ねているわけではない。僕の場合、「自分が思ったよりもできなくて、それを他人に目撃されたとき」「自分の想定以上に責められたり馬鹿にされたりしたとき」に消化不良を起こしてしまう。

①自分が自分の想定よりできなくて、それを他人に目撃された時

自分の中で「自分はこれくらいできるだろう」と踏んでいる部分ってある。そのハードルが高いか低いかではなく、その予想する高さを越せなかった時、やはりどうしても悔しい。そしてハードルを越えられなかった自分を見られたくないという気持ちが強い。僕は俗にいう「プライドが高い」タイプの人だということだろう。

「自分の想定より」というのがとても重要だ。「国語がいくら苦手と言ってもノー勉でもないしさすがに20点は取れるやろ…」と望んだら14点だったとか、「得意な数学だったら平均+15くらいはいけるんじゃない?」って思ってたら平均+5点だったりして落ち込む。要は、他人との比較で落ち込んでいるのではなく、自分の見積もりよりも自分が下であるということがショックでたまらないのだ。

だから「私なんて数学赤点だったよ~」と慰められても、「君はもともと数学が苦手で、今回も赤点だと思ってやってたんだろ?だからそんなに明るく話せるんだろう?」となってしまって、気にかけてくれるその気持ちはうれしいんだけど、「わかってない」と感じて、勝手に一人で余計に傷ついてしまう。僕だって10点いけばいいところの現代社会で赤点取ったところでノーダメだわ!

でもこんなん、人に言ってもどうしようもない。というか、人に言うのが恥ずかしすぎる。「本当は100点取れると思ってたんだ」なんて言ったら、とんだナルシスト野郎だし。自分の実力を上に見積もっていたせいで落ち込んでるとか自業自得過ぎる。僕が慰める側だったら「どうせいっちゅーねん。本当はIQ50000000なのにこんな点数なんてテストが悪いでちゅね~とか言えばいいんか???」ってキレてしまう。なので他人にはなぜ落ち込んでるのかうまく説明できない(キレられたら泣くし)。

自分で自分を慰めることもできない。「自分って思ったよりダメだったね」なんて声を掛けたら、ただでさえ落ち込んでる自分に追い打ちをかけてしまう。自分の評価の問題なので「でも物理は80点超えたよ!よかったじゃん!」と別の教科と比較したって意味がない。かといって、ダメだった事実は変えられないし、評価は決して不当なものではないので、「テストが悪かったよね」などと悪者にすることも罪悪感を覚えてしまう。

こうして、僕はこの感情のうまい処理を思いつかず胃もたれしてしまうのだ。他人にも言えず、自分で自分を慰めることもできず、思考の転換で傷を和らげることもできず、負の感情をおなかにため込んで、しゃがみ込んでしまう。つらい気持ちを誰かに癒してほしい気持ちと、体調が悪いので放っておいてほしい気持ちが、拗ねるという一切生産性のない非合理的な態度に出てしまう。

自分の想定以上に責められたり馬鹿にされたりしたとき

もう一つの重い負の感情は、何か冗談をしたり、悪ふざけをしたり、ラインを返さなかったり、まかせっきりになってしまったりしたのを「それやめなよ」とストンと言われた時、(の3時間後とかに自覚が始まるんだけど)に感じる。最初は謝りながら許していてもらっていた分を謝らなかったり、その悪い癖を直せなかったり、僕はしばしば道徳的ではない振舞を友人にしてしまう。そしてそれを友人に指摘されるとき、負の感情がメラメラとお腹の中で燃えてしまう。

ある意味では①の対人関係の話なので、一般化すれば①に統合されるのだろう。「自分が許してもらえると想定していた範囲で、許してもらえなかった」ということなのだから。

忘れてはいけない一番大切なことは、指摘した友人が悪いということでは一切ないということだ。僕が悪いのを友人はただ指摘してくれただけで、友人は勇気をもってしてくれたのだと思うし、ただ黙って離れるのではなく、指摘したところに友人が高い倫理観を持っていることがわかる。でも、そうした客観的な分析は、自分事となると全く役に立たないということも僕はわかっている。

自分の想定以上に友人を苦しませていたことが悔しいし、それを指摘されるまで気づいていなかった自分のアホさが悔しい。これを話してもきっと「いや、君が悪いだろう」としか声のかけようがない。僕も、無意識に自分を傷つけてきた人がこんなことを言っていたら「いやでも君が●●してくるから悪いんじゃん…自分が傷ついたみたいに言われてこっちも気分悪いわ…」って思うし言っちゃうだろう。

それが正論だと思いつつ、馬鹿な僕がしっかりショックを受けているのも事実だ。「なるほど、確かに僕が悪いな!」と気づいたところで自分の負の感情はゼロにならないし、むしろ他人に転嫁することができなくなって、ひたすら胸のうちに居残るのだ。自分が悪いから、他人に慰めてももらえないし、自分で慰めることもできなくて、時間が過ぎるのを待つしかなくなる。

そして拗ねて機嫌が悪くなる

時間が解決するしかまともな方法はないとわかっていても、やはりお腹に負の感情がたまると苦しい。どうにかして楽にすぐに消化できないか考えてしまう。僕が普段負の感情を持った時にやることはちょっと触れたように大きく3つ。

①自分で自分を慰める
②他人に慰めてもらう
③他人や周りのせいにする

でも、どれもこういった「自分が完全に悪いとき」には正当に使えない。でももう体と心の反応で、どうにかしてこの負の感情から逃れようとしている。そこで他人からの慰めを求めながら、他人や周りのせいにして、最終的に不幸になりすぎた自分を自分で慰めるというのをしようとする。それが拗ねているとか機嫌が悪いとかいう状態なんじゃないだろうか?

そう思うとなかなか合点がいく。拗ねてる時、機嫌が悪いとき「他人が心配したり気にかけたりするような態度をとる」「他人に謝らせようとする」「自ら不幸になりに行く」といった行動をとりがちなのは、僕の防御反応だったのかもしれない。おなかが痛いときにしゃがみたいのと思うような感じで。体が…というか心が、勝手に反応してしまう。

ため息をついたり、食欲が無いといったり、体調が悪いと言ったりして、僕は他人に気を使ってもらおうとする。慰めが欲しい。でも正当な慰めはもらえないから、誰かに何か気遣ってほしい。あるいは、この非生産的なふるまいはあくまでも体調不良のせいですよ、ということにしたい。また、指摘されたことを勘違いしたフリをしてやり続けて体調を壊したりノンブレーキで不幸に突っ込んでいって誰かに「僕が悪かったよ」とか言わせたい。言語化すると凶悪だが、そういう心が僕の中には絶対ある。

いまだに解決策がわからない

他人からすれば「おいやめろ。とにかく他人に不快さを与えないことを第一に考えてくれ」という感じだろうが、僕としては自分が一番大切すぎて必死になった結果なので、善処はするが確約はできない。

時間が解決するまでの間ずっとお腹が痛いよ状態のまま笑って過ごせない。出ちゃう。顔から。苦しんだぞってのが。慰めてくれよってのが。

今回こうして言語化してみて、いろいろわかったような気もするけど、解決策には結局なっていない。頭の中でわかることは大切なんだけど、本当につらいときに効くのは誰かの慰めでしかない。

正直に自分が悪いことを告白しつつ、「慰めてください」と首から下げて頭を差し出すくらいしか今の僕には思いつかない。

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