14歳の頃、両親が離婚した。
中学生ながら、正直、まあそうだろうなと、心のどこかで思いつつ、でも涙が止まらなくなった。
どうやら父は当時借金まみれで人としてはどうしようもない状態だったらしい。
小さい頃から出張が多く、家にいる日は少なかったけど、それがだんだんもっと少なくなっていって、ついには居なくなったという感じだった。

でも少なくとも自分の記憶では、親としてどうしようもない人ではなかった。大型連休があると、父の実家がある福岡によく連れて行ってくれた。公園で遊んだ記憶も、ふざけてプロレス技をかけられた記憶も、一緒にテレビゲームをした記憶も、サッカーを観た記憶もあって、楽しい想い出だけが自分の中には残っている。

僕が母に叱られてとにかく泣きわめいていた時に、父に外に呼び出されて、階段のところで諭すように慰められた記憶がある。男なら泣くな。そんなことでママを困らせるな。と淡々と言われた。
ある日2人で道を歩いている時に、僕が小学校での話をしている時、障害学級の子を揶揄うような事を言った瞬間思いっきり拳骨を頭に落とされた記憶もある。

小学生の夏休みの自由研究で、夏休み中に学区内にあるラーメン屋を全部食べてマップを作って、ノートに評価を書くという無茶苦茶な計画を立てた時も、父がそれに付き合ってくれて、大作が完成した。

何より小学生当時、ひょろひょろのもやしっこだった僕に対して、父は90キロを超える巨漢でとても存在感のある人だった。あれ僕のお父さんなんだよって言って驚かれるのがなんだか嬉しくて、友達にも自慢の父だった。

僕の名前は父親が所属していた祭りの団体名から取られている。父は休みの日には緑の法被を着て喧嘩祭りに出かけるのが好きだった。たまにたんこぶをつくって帰ってきた。あんまり覚えてないけど、僕も法被を着て神輿に座ってる写真も残ってる。


両親が離婚した後も1年に1度ほど、父には会っていた。
1度、三軒茶屋のその当時の父の自宅に行ったこともある。鍵穴が古いピアノで使われているみたいな、ちょっと針金で弄れば開きそうなチープな作りの、とにかく古いアパートだった。その部屋で1人で暮らす父の姿がどうにも想像がつかなかった。

父は会うたびに彼女できたか?と聞いてくるのがお決まりだった。ついぞ父には彼女できたよ!という報告はできずじまいだった。

19歳の頃、大学1年の春休みに父から連絡があった。福岡のおばあちゃん(父のお母さん)が癌で長くなさそうなので、都合が合えば一緒に会いに行かないかとのことだった。現地、福岡空港で集合し、父と共に病院に向かった。

着くと、想像していた何倍も苦しそうなおばあちゃんの姿がそこにあって、一番面くらってたのは父だった。結局その日は一日中病院でおばあちゃんの看病。夜、久留米で2人で屋台ラーメンを食べてる時に父の電話が鳴って、再び病院へ。おばあちゃんは既に亡くなっていた。

父は病院でわんわん声を上げて泣き始めた。そんな父の姿を見たのは後にも先にもその時だけ。次の日からお通夜、葬式にも出席。父との久々の福岡旅行は思わぬ形で終わった。


そして、おばあちゃんの死から、父は完全に姿を消した。
どうやら、親族で集まって遺産相続などの話し合いをする場に姿を表さず、一切連絡が取れなくなったとのこと。後日失踪届も出したようだが、未だに見つかっていない。

恐らく、借金まみれで家族も友人も仕事も失って、父にとって自分の母親は最後の砦だったのかもしれない。
生きてるのか死んでるのか、変な宗教にでも入って山奥に篭ってるのか、闇金で金借りて海の底に沈んでるのか、さっぱり分からない。

それから10年以上が経ち、会いたいのか会いたくないのかもよく分からない。もう街ですれ違っても気付かないかも。でももし万に一つでも生きてるなら、話してみたいかな。別に恨んでもいないし、嫌いでもないし、父親だし。


で、なんでこんな事を書いたかというと、自分が父親になるからです。どうなることやら。

以上



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