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問題の所在


清浄真実の願心でかためられた名号が人の心を動かさぬはずがない。念仏が伝わりにくいということのほうがむしろ不思議である。問題は、法のほうにでなく、念仏者、真宗信者をもって許している人のほうに、何か根本的な不自然、致命的な虚偽があるのではなかろうか。 


上記は、西光義敞師の著書「わが信心わが仏道」からの一節である。名号とはつまり南無阿弥陀仏のことである。南無阿弥陀仏は一切衆生を漏れなく救い、極楽浄土に往生させ、必ず仏にならせるという阿弥陀仏の大悲の願である。また、それを成就せしめるための阿弥陀仏の永遠ほどの仏道修行の功徳の当体である。その南無阿弥陀仏を煩悩べったりの凡夫のこの身にしかといただいておきながら、この喜びを誰かに伝えようとしてもなかなか伝えることができない。

「根本的な不自然、致命的な虚偽・・・」この言葉が頭から離れない。私の喜びは果たしてホンモノだろうか。本当に浄土往生を喜んでいるだろうか。西光師の言葉に腹の底の底にある自身の不徹底を見透かされたような気がして、ドキリとした。

私の側には何一つ清浄なるもの、真実なるものなどありはしない。そう開き直ってみたところで、簡単に済まされるような話ではない。ましてや、人間の迷いは限りなく深く煩悩と執着心の塊であるがゆえに、真実の法が届く耳などいくらも持ち合わせていないのだと、安易に片付けられる問題でもない。

私は一念仏者として、この言葉を厳しくも暖かいご意見と受け止め、常に胸に抱き続けていかねばなるまい。自己の心の奥の奥まで誤魔化さず問うていくことをけっして怠るまいと、自覚を新たにした。


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