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カステラ追想


私が初めて福砂屋のカステラを食べたのは、社会人一年目。
当時の上司の家に招かれ、お茶菓子として出された時のことだった。
それまで、カステラといえば文明堂しか知らなかった私の常識を覆すおいしさ。特になんといっても、底にびっしりと敷き詰められたザラメのおいしさに、たいそう感動したのを覚えている。

  なんだ?おまえ、これ知らなかったのか?

大学を出たばかりの男子が、こんな高級なカステラを知る由もなく、素直に「はい」と答えるしかなかった。
そんな私を見て、上司は笑いながら、そして優しく言った。

  うまいだろ?




今日、去年入社の男子社員を連れ、親しくしている個人事業主のところに行った。オフィスはマンションの一室。住居としては使っていないので、生活感がまったくない部屋。モダンなインテリアで統一された内装に、日頃無機質なオフィスで働いている私には、羨望するしか術がなかった。

出先から戻るのが少し遅れるとの社長の連絡に、ゆったりとした上質なソファに座って待っていた。すると、奥にあるだろうキッチンから、ピーッとお湯が沸くケトルの音がしてきた。そして少し遅れて、香ばしい珈琲の香りが流れてくる。初めて来た男子は、もの珍しげに辺りをキョロキョロ見まわしている。

やがて、秘書として働いている、これもファッションモデルのような上品な着こなしをした女性が、珈琲と菓子を運んできた。

「ひがしさん。今日は暑いでしょうから、大好きな冷たい珈琲淹れてまいりましたわ」
「ありがとうございます。夏目さんが淹れる珈琲、まるでプロ並みにおいしいんで、仕事しにきたのを忘れたいぐらいですよ」
「まぁ。お世辞でも嬉しいですわ。それと、これ。召し上がって下さいね。これも大好きでしょ?」
出されたのは、福砂屋のカステラ。
厚すぎず薄すぎず、ほどよい大きさにきれいにカットされたカステラ。
「これはこれは。いや、本当にご馳走になりにきたみたいで申し訳ありません。でも、ありがたくいただきます」
「社長まもなく戻りますので、今しばらくお待ち下さいね」
彼女はそう言うと、奥に戻っていった。

「おい。遠慮せずにありがたくいただけ」
食べていいものかどうか迷っている素振りの男子に、後押ししてやった。
カステラを一口食べる。いつもながらおいしい。
そして冷たい珈琲を一口飲む。これまたおいしい。
まるで隠れ家喫茶店に来ている気分だ。

「ひがしさん。このカステラうまいっすねぇ。こんなの初めて食べました。このザラザラしたのって、なんですか?」
「なんだ?おまえ、これ知らなかったのか?」



あれから数十年。
私は、当時の上司と同じセリフを言った。
「はい」
そして、若い彼も、当時の私同様、ただただ素直に答えた。
「うまいだろ?」
私は、笑って返した。


また数十年後、同じことが繰り返されたら、彼は私のことを思い出すであろうか。
そう思った。




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