日記「大人」と「子供」

10代の頃は29歳がオッサンの始まりだと思っていた。しかし29歳半ばを過ぎて気づいた。かつて「老害」と呼んでいた人たちは、まだモラトリアム期間が続いていただけだったのだな、と人生の答え合わせができた。

年齢を重ねるごとに、自分の中の「大人」と「子供」の境界線がどんどん曖昧になっていくことに気づく。かつては大人を尊敬の対象と思っていた。しかし今では、大人への畏れは消え、子供の無邪気さを心の奥底で羨ましく思うようになった。

案外、「大人」とは権威や体面を重んじ、子供っぽさを捨て去ろうとするものなのかもしれない。そうであれば、私は大人にはなりたくない。遊び心を失わず、新しいものに対する好奇心を忘れず、時に子供のように無邪気で無防備でありたい。

確かに年を重ねれば、責任は増え、我慢を強いられることも多くなる。しかし同時に、人生への理解も深まり、些細なことを気にしなくなる。世間体を気にせず自由に生きられるようになるのも、年を重ねた醍醐味なのかもしれない。

つまるところ、年齢と「大人」「子供」は必ずしも比例しない。人によって心の成熟度は異なり、年を取っても心は若々しくいられる。オッサンだろうが小僧だろうが、本当の自分でいられればそれでいい。大切なのは、歳を重ねるごとに自己を深く理解し、心の自由を手に入れていくことなのではないだろうか。

なんとなく

しかし、人生の道のりは案外平坦ではない。挫折や苦難に見舞われることも多い。そういった時こそ、子供のように前のめりになることができる心の自由が重要になってくる。

ある時は、夢に賭けた努力が虚しく感じられ、絶望的な気持ちに襲われるだろう。周りから白けた視線を送られ、早々に人生のレールから外れてしまったと責められるかもしれない。そんな時でさえ、「子供」の部分がしっかりと残っていれば、一念発起して立ち上がることができる。

また仕事に追われ、プレッシャーにさらされる中で、几帳面に計画を立てては破綻を重ね、落ち込むこともあるに違いない。そんな時は子供時代の無垢な心に戻り、遊び心を持ち続けることが大切だ。遊びは新しいアイデアの源泉となり、打開策を生み出すきっかけにもなる。

子供でいてもよい部分と大人になるべき部分

人生を全うするためには、子供のような心を失わずにいることも大切だが、時と場合によっては大人への成長も必要不可欠である。

子供でいてもよい部分とは、無垢で自由な心の部分だ。世間体を気にかける必要がなく、素直に感情を表現できる。新しいものに前のめりで飛び込み、遊び心を忘れずにいられることだ。こうした心の在り方は、人生に彩りと活力を与えてくれる。

しかし一方で、時には大人になる必要もある。責任を持って行動し、理性を働かせるのが大人の役割だ。子供じみた行動に走れば、周りから非難を浴びかねない。社会の一員として最低限のルールや作法を守らねばならないのが大人なのだ。

例えば、子供の無邪気さは素晴らしいが、金銭感覚が伴わなければ借金地獄に陥ってしまう。自由に好きなことだけをしていれば、食べていけなくなる。大人は現実を直視し、生活の糧を得るための努力をしなければならない。

また、子供は自分本位の考え方をしがちだ。しかし大人は、周りの人々や社会全体のことを考えて行動する必要がある。企業であれば部下の面倒を見る上司の自覚が求められる。

つまり、子供のようであるべき部分と、大人として振る舞うべき部分を、状況に応じてうまく使い分ける賢明さが人生を豊かにしていくのだ。子供心を失わずに前を向き続け、同時に大人としての役割を果たしていく、そういった心構えが大切なのかもしれない。

おわり

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