科白劇 舞台「刀剣乱舞/灯」についての雑記


8/2 品川ステラボール 17:30の公演を見ました。
以下、ネタバレも多少ありますので、未見・気になさる方はご注意願います。
これは演劇という表現や、それに付随する私個人の考えに対する雑記であり、あまり物語の内容については言及しておりません。


この時世で本来の演劇ができなくなって、綺伝だったものが科白劇になった。私は正直チャンバラ(あえてこの書き方をします)を見るのが好きで、それのない(だろう)刀の舞台が果たして面白味を増すのか少し不思議だったというより、そんなことはないのだろうと思いすらしていた。
チケットも当初は取るつもりはなかったけれど、DMMの無料配信で全作を見て(維伝は推し・和泉守兼定が出るということでチケットを取っており、運良く劇場で見ることができていた)、しかしやっぱり好きだし、話の構成や全てが面白いので、どういうものになろうと、劇場で見てみようと思い直した。それまでの舞台刀剣乱舞とどう変わるのか、多少意地の悪い気持ちがあったことは臆することなく白状します。
シリアル先行は外れ、ゲーム先行でチケットが運良く取れて(正直応募はしたものの取れないと思っていた)、いつも映画や演劇を見る時と同じく、今日、その当日まで、一切の情報を入れないようにしていた。これは表現物に相対する時の主義というか、ただのこだわりで、初見時の印象やその経験は、何にも代えがたいものだから、なるべく余計な情報は入れておかないようにしようという考えに基づいている。ただまあツイ廃ではあるので、RTで回ってくる演者さんたちのお写真は拝見していて、山姥切長義の見た目(写真のみなので、判断基準はこれだけ)が、ものすごく仕上がっていることだけ知っていた。
いざ会場につけば、観客席後方上手側端近く。座った瞬間にこれは色々と見切れるのだろうなと思った(実際には映像の右側端・長義さんが「お前たちの死が来たぞ!」と声を上げたいちばん格好良いシーンが見切れていました)。
そこからあたりを見回せば、映画館では見慣れた光景が広がる。というのは観客席に人がまばらで、空いている、という印象を与えるもので、それを目の当たりにして、劇場という場所での知っている光景とのギャップに面食らってしまった。
上演開始前にパンフをぱらぱらしてしまい、講談師がどうやら出るらしい、ということを知ってしまったのが少々悔やまれるけれど(本来の新鮮な驚きを失ってしまったので)、それでも開演して、講談師が入り話し始めて、ああ、と、思った。

月並みな言い方しかできない。感動した。それに尽きる。

私は古い映画が好きで、それらに何かと触れているので、その光景を見てすぐに、きっとサイレント映画を楽しんだ人々は、こういうものを楽しんだのだろうと思い起こした。奇しくも、先日活弁士つき映画上映のチケットを取れずに悔しい思いをしたばかりで、きっと、弁士付き上映というのもこういうものだろうなと思った。
講談師が入る、ということに関しては、なるほどそうきたか、と素直に思った。残念ながら講釈を拝見したことはないのだけれど、確かに、よくよく考えると、こういった形式には相性がいいわけだ。本来ならお一人ですべてをまかない大勢の観客を楽しませる人たちなのだから。いつか生で見てみたいものリスト(オペラや歌舞伎など)の中に"講釈"が本日加わりました。話がそれました。

物語が始まって、進むにつれて、当然戦闘シーンが出てくる。敵役のアンサンブルはおらず、それらは全て映像、ソーシャルディスタンス、鍔迫り合いもできない。けれど、講談師の拍のとり方やなんかで迫力が出ていて、その上で舞台上に刀が一振り、もしくは二振りで殺陣をする。それはむしろ演者(刀)の独擅場が続いているような印象だ。普段の演劇ならきっとここでこういう演出になるんだろうな、というような想像をかき立てられもして、そういう面でもとても面白かった。
そして、迫力のある演出が、ソーシャルディスタンスな形態ではできないのだろうと、私は甘く見積りすぎていたのだなと思わされた。ほんとうはそんなもの、演出の妙で、いくらでも、魅せることができるのだと、まざまざと見せつけられた。人間が物理的に目前に近寄ることがなくても、息を呑むような殺陣のやりとりが、かなうのだと。

その他の演出で面白く思ったのは、対面で食事をするシーンを、刀二振りにそれぞれ机と椅子を用意し、観客席に向かせ、舞台上の左右に配置するもの(映画的だなと、今になってふとそう思う)。
椅子に座って大勢で話すシーンを、話しているうちに椅子の向きを変えたり、移動することで変化を持たせるところ。
そういった演出はあらゆる工夫に満ちていた、と素人目に感じる。

ステラボール千秋楽だったから(?)、カテコがあったのだけれど、歌仙さんの方と大友宗麟の方(お気づきだろうと思うけれど、演者さんに明るくなく、役名で表記しており申し訳ないです)が涙ぐまれていて、舞台という表現形式や演技をするということに対する想いを、私は客として余すところなく受け取ることができる機会を得たのだと気づいて、とても有り難く思った。そして、いま、この時世・この状況でできる最善の、客に魅せる演出・演技をそこで作り上げられているのだと、気づいて、こんな言葉しか出ないのが悔しいほどに、身体の底から感動したのだ。


物語の内容の話を少しすると(私は考察が苦手なので、そういった類の話はまったく出ませんし、物覚えが悪いので、今までのステの中で出たことであったり、その時私が思った話の繰り返しもあるかもしれない)、ゲームでの慶長熊本・特命調査と流れはほぼ変わらないけれども、今まで続いてきた舞台とも地続きになっており、遡行軍側も歴史を繰り返している、という視点に、確かに私たち審神者(ゲームをする側)は何度も同じ時代に出陣するし、そこをそういう風に取り入れるのかと面白く思った。そして円環をめぐっている三日月宗近は、実はこのあたり(放棄された歴史にははじめも終わりもない、だとか)と関係があったりして……? など。それと同時に、実は刀が守っているのは、大まかな"正しい歴史"ではなく、その本丸の主に続く"正しい歴史"なのではないかとも思ったりしました。

キャストの方々もとても素晴らしくて、カテコで7/3から稽古を開始した、とおっしゃっていたのが信じられないような仕上がりかただった(失礼な物言いで申し訳ありません)。
歌仙さんと、先述の長義さんは続投だけれど、他の刀は新規キャストのはずなのに、まるで以前からずっとその刀剣男士がそこにあるかのように、いや、あの場に、そこに、私たちのゲームやなにかで知るあの刀たちが、存在していた。
歴史上の人物の方々も素晴らしく、キャスト発表で話題になっていたガラシャ様は、強い蛇のような女であり、心細いひとりの女性であり、人間でないものであり、その"顔"の変わりかたが凄まじい。
公演が始まってから、「ガラシャの女になって帰ってきた」などというつぶやきがツイッターで散見されたけれど、それもそうだろうと、あの、人ではないものになった時のオスカルのような出立で、私もそう思いました。あの瞬間に変わる、人間ではないものの声のつくり方。圧巻の迫力。
ガラシャと三斎様の間柄のつくり方も劇的で、切なく、あれが挟まれることで、刀剣乱舞としてというよりも一個の物語として、深みが出たように思う。


私が観劇したそれらすべては、あまりにエンターテイメントで、常々思ってはいるけれど、改めて、私はエンターテイメントに生かされていると思った。
エンターテイメントが私を死なさずに生かしている。
不要不急などと世間では言われるけれどもそんなものクソくらえだ。私にはやっぱり必要なものだと強く実感した。

物語のさいごに、歌仙さんが2020年に遠征に行くと言って、本来の綺伝の話はいつか必ず届けるからと言った時、私はそれをずっと待っていようと思った(こういう時、太宰治の『葉』冒頭理論を切実に理解させられる)。
元はチャンバラが見たかったのだ。きっとあのキャストで綺伝が上演されていたなら、本当に素晴らしい演劇を見ることができたのだろうと思うし、きっとそういうものを再び上演してくれるという予感が、確実に迫っている。
けれど、その"もしも話"はとりあえず端に捨てて、この今日私が見た科白劇は、今できる最善であり、関わる人たちが演劇やエンターテイメントを諦めずに、最上を観客に届けようとしてできた、至高のエンターテイメントであると思う。「戦い続ける座組み」を、観劇中にひたすら感じ取っていた。

この文章は、公演が終わって、当初の予定では夕食でもとって帰ろうと思っていたのに、寄り道もせず家に帰ってしまい、公演のために着飾った服装や化粧をすらはずせないまま、ひたすらに書き留めているのだけれど、なぜだか、書きながら、泣いている。意味がわからない。とにかく今日経験したものがすばらしくて、月並みに、私はこういう表現が嫌いで滅多に書かないのだけれど、とても勇気をもらった。
何度でも書きます。"生かされている"と感じるのだ。こういったエンターテイメントがあるから、私はただ牛のように遅い歩みでも、足下のその先しか見ることができずとも、生きていける。

初めて、劇場を出てすぐにBDの予約をした。家のテレビや、PCや、再生機器でこの上演をもう一度見たとして、あの気迫を二度と得られないのかもしれない。私は劇場や、映画館は、経験だと思っている。それは気楽な自宅の中で、得られるものではないのだろうと。けれど、いま、確かに感じているこの感動としか表現できないこれは、ほんとうに、実際に私が、今、ここで、感じたことで、決してなかったことにはならないものだ。
本当に、素晴らしいものを見て、経験したと思う。

ぐだぐだとまとまらない文章で、私以外の人間には読みにくく面白くもないだろうと思うけれど、この新鮮な現在の心地を、絶対に記述しておかねばならないと思って、こうして書いています。

関係者の方々が、この苦しい時世に屈することなく、演劇や、エンターテイメントを諦めないでいてくれて、ほんとうに、感謝しています。
私たちはこのどうにもならない時世をどうしても生きていかねばならないようだし、その中でエンターテイメントを続けて、やっていてくれること、その強い意思、勝手に受け取りました。
そのみなさまの姿勢が、とてもとても、嬉しくて、湧き出すような力を、感動を、いただきました。

"There's no business like Show Business like no business I know."

素晴らしい時間と経験を、ありがとう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?