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高橋 統増(立花 直次)

生誕は1572年。死没は1617年。
父は高橋紹運(たかはし じょううん)。母は斎藤鎮実(さいとうしげさね)の娘。次男であり、長男は立花宗茂(たちばなむねしげ)。
幼名は千若丸。
大友義統の諱を貰って統増(むねます)と名乗る。
兄、宗茂が立花道雪(たちばなどうせつ)の婿養子となったため、高橋家の嫡男となった。
長男、宗茂をベタ惚れした立花道雪が娘誾千代の夫にと婿養子を希望。
高橋紹運も嫡男、宗茂を高橋家の後取りにしたいので次男ならいいですよ。と交渉していたのですが、立花道雪に押し切られる形で婿養子に取られてしまいます。戦国の世界なのでよくわかりませんが統増が立花道雪の婿養子になっていればまた歴史が違ったかもしれませんね。
1586年島津の筑前侵攻に対し父、高橋紹運は岩屋城、統増は宝満城を守った。しかし、父の高橋紹運は岩屋城の戦いにて自刃。豊満城は島津軍に取り囲まれた。この時、統増の妻の父、筑紫広門(ちくしひろかど)はすでに島津軍の捕虜になっており、降伏の勧告に揺れていた。城を明け渡せば城兵、城主ともに助けるという条件に降伏するが島津軍は条件を反古にし、捕まり捕虜となる。14歳の統増には無理も無いことなのですが、この出来事が「統増一生の不覚」として高橋統増に刻まれるようになりました。本来なら父と共に城を枕に討ち死にできなかったことを後悔していたといいます。

この後は5歳年上の兄、宗茂を父代わりとして敬い、対面する際には常に畏敬の念を表し、戦の場においては率先して戦いに挑む姿勢を貫いたそうです。

同年の豊臣秀吉の九州征伐の際に兄、宗茂と共に豊臣氏の直臣となる。

翌年、筑後国三池に1.8000石の所領をあたえられた。

佐々成政領内での肥後国人一揆の鎮圧に兄、宗茂と共に参陣。

わずか一日で13の合戦と7つの砦を落とす活躍をみせる。

文禄、慶長の役に参陣。

碧蹄館(へきていかん)の戦いでは兄宗茂に従って先陣を務め、功をあげている。

また明軍に宗茂が捕らえられたという誤報の際には自ら700あまりの手勢を引き連れて敵陣を突破。宗茂の退路を開いた。このため宗茂に大剛の士と評されたといわれています。

1599年 島津領地の「庄内の乱」鎮圧のため出陣。

1600年 関ヶ原の戦いで西軍に味方して伏見城、大津城の戦いに兄、宗茂と共に出陣。戦後、改易されて領地を失う。

浪人となるが兄、宗茂と共に徳川秀忠に召し抱えられる。

1613年に家康と拝謁。

1614年常陸国筑波郡内の柿岡5000石を与えられて旗本になる。

この時に本田正信(ほんだまさのぶ)のすすめで屋号を高橋より立花に改めた。

11月大阪冬の陣に参陣。徳川秀忠を救う戦功をあげる。

1617年死去。

1621年 子の立花 種次(たちばな たねつぐ)が加増され旧領の筑後国三池10.000石の大名になる。

統増は徳川家の剣術指南役の柳生宗矩の弟子となり「新陰治源流」を起こした。

「立花に凡将なし」とはこのことですね。

三国志でいえば「馬氏の5常、白眉最も良し」の馬良の弟、馬謖かなあ。馬謖が斬られてなかったら活躍したと思うなぁ。という個人的見解で。

高橋 統増でした。





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