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勇将 斉藤鎮実(さいとう しげざね)

斉藤鎮実さんは父が斉藤 長実という方です。斉藤長実は大友義鑑の時代において加判衆を務め、弓術指南の家柄です。1550年に主君義鑑が嫡男義鎮を廃嫡しようとしたのを諌めたため、誅殺されます。このため、「二階崩れの変」が勃発。

主君、義鑑は死去。当主の座についた義鎮が誅殺された長実の名誉を重んじ、重臣に抜擢。父の家督を相続させます。その際に、偏諱「鎮」をもらい。鎮実となります。生誕年が不明ですが宗麟さんと同じくらいの年齢かと思われます。かなりの勇将で、戦場ではイケイケになる気性です。

鎮実さんは道雪さんと共に入田親誠討伐に出陣しています。

菊池義武討伐に出陣。

高橋鑑種討伐に出陣。

1567年筑紫惟門討伐戦では初戦で釣りの伏せにハマり敗退。しかしながらしつこく攻撃。散々攻めて、惟門は自害。息子、広門を降伏させました。

1570年の今山合戦では龍造寺軍と戦い宗麟から2度も感状を受けています。

戦場では退くことを知らない勇将のようです。怪我しても戦います。

1578年耳川の合戦。

当初、島津討伐に反対していますが宗麟には聞き入れられず、しぶしぶ出陣。

しかし、勇将で戦場ではイケイケになる気性。早く島津討伐を終わらせたい気持ちもあったのかな?田北鎮周(たきた しげかね)と積極攻勢を主張。慎重派の角隈石宗らと対立。耳川で強行して攻撃したところで島津の釣りの伏せにかかり討ち死にしています。

斉藤鎮実は筑紫討伐にも釣りの伏せで手痛い敗北をしています。戦場での勇将も島津の釣りの伏せで討ち死にという結果は残念です。

耳川の合戦は大友軍の統率が取れない中での島津軍への強行攻撃というのは大友家内での武将が比較的自由に戦していた象徴的な武将のようにも思えます。

また、島津の鉄砲隊が活躍した場でもあったようです。島津家は他の大名のように足軽に鉄砲を持たせたりせず、士分の家臣に持たせ戦闘が始まるとまず銃撃を行い、その後、従者に持たせていた槍や弓を取って戦ったとあります。大将首に致命傷を与えてから、槍や弓で討ち取る戦術。これには大友家のイケイケの武将たちはたまったもんじゃありませんね。「我こそは!」って名乗りをあげたら、銃弾に狙われるのですから・・・。大将がうたれたら足軽は逃げるしかありません。自分の活躍を評価する将がいないのですから。

おそらく斉藤鎮実も先陣切って啖呵きったに違いありません。

昔は勝てた。でも、島津には勝てない。

勇将 斉藤鎮実でした。


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