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戦国最強の女将 吉岡 妙林尼


吉岡妙林尼(よしおか みょうりんに)は戦国時代最強といわれた女武将です。信長の野望などでは「巴御前」のような長刀を持った勇ましい姿が特徴の人物ですね。
大友家家臣の吉岡家の人物紹介ではこの人物が外せません。
ただし、正確な記述がないので、まさに伝説の人物です。
生誕、没年不明。
父の名前も大江神社の神主、林左京亮(はやしさきょうのすけ)、鉱石採掘の、丹生小次郎正敏(にうこじろうまさとし)ともいわれています。母の名前も不明です。どれも信憑性ない感じです。
唯一間違いないことは、大友家家臣、吉岡鑑興(よしおか あきおき)の正室であったこと。

吉岡鑑興は父が吉岡長増(よしおか ながます)。
大友家の重臣の一族です。
1578年の「耳川の戦い」で夫である吉岡鑑興が討ち死に。未亡人になってしまいます。「耳川の戦い」では武将の奥さんの多くが未亡人になり、「日向後家」(ひゅうがごけ)と呼ばれるワードが流行語になるほどでした。

妙林尼はこの時、夫を弔うため出家して妙林尼を名乗るのです。

1586年島津軍、豊後侵攻。
大友宗麟が天下人 豊臣秀吉に援軍を頼んで、援軍できた四国・大友連合軍も島津軍に敗退。(戸次川の戦い)
島津義久(しまづ よしひさ)は軍をわけ主要な城の攻略を命じます。その主要な城の一つが吉岡妙林尼がいる鶴崎城でした。
鶴崎城の城主 吉岡統増(よしおか むねます)は妙林尼の子供。しかし、この時、大友宗麟の居城 丹生島城(のちの臼杵城)の防衛にあたっており、主な将兵もいない城でした。
島津義久が鶴崎城攻略に向かわせた武将は伊集院美作守久宣(いじゅういんみまさかのかみひさのぶ)、野村備中守文綱(のむらびっちゅうのかみふみつな)、白浜周防守重政(しらはますおうのかみしげまさ)で総勢3000~5000の軍勢でした。
普通なら命が助かることを優先し降伏するところ。
しかし、妙林尼は代理城主として籠城して対抗することを決意するのです。
戦にでたことのない女、子供に鉄砲の撃ち方など武具の扱いを教え、さらに城の周りに落とし穴を作ったり、索敵の鳴子をおいたとされています。
鶴崎城は平地の城ですが東西、北は海と川に面しており攻められる箇所が南側のみ。ここに守りを置けばいい城の状況が妙林尼に籠城を決意させた一因かもしれません。
戸次川の戦いで勢いに乗る島津軍は力押しで攻めてきます。妙林尼は十六回に上る島津軍の攻撃を撃退したとあります。
義理の父、吉岡長増がかの諸葛孔明のように自分の死後、鶴崎城を攻める敵がいたら、この紙の指示をみて撃退せよ。なんてあったらかっこいいですよね。事実、妙林尼は多彩な罠で敵を城に近づけなかったとあります。
しかし、多勢に無勢。食糧や武器も限界になり、城兵の命を保証する条件に
開城します。妙林尼は開城した後、入城した3将を城にいた女性陣を使って連夜、接待をはじめるのです。
三国志でいう「美人の計」。呉の周瑜が劉備玄徳を呉から帰りたくなくなるようにした策ですね。
この策に野村備中守が引っかかります。美女かどうかはともかく「日向後家」の妙林尼に恋心を抱いてしまうのです。
妙林尼がこの状況を見逃すはずがありません。野村備中守を手中に収めようと策謀を巡らします。
1587年豊臣秀吉が「九州征伐」を掲げ、二十万の兵率いて島津討伐に向かいます。島津義久はこの事態に日向での迎撃を決意。豊後にいた武将たちに移動を命じます。当然、鶴崎城にいた3将にも命令が来るのです。
この命令を受けた野村備中守は妙林尼に「一緒に日向に行きませんか?」と誘います。妙林尼は同意すると、日向での決戦前の酒宴を開き、3将を泥酔させるのです。3将は酔った足取りで城をでると日向を目指して向かうのです。妙林尼はこの時を待っていました。事前に吉岡一族に檄文を飛ばすと決戦の時を伝えていたのです。
3将が乙津川を渡るあたりで吉岡妙林尼の指示で伏せていた兵が一斉に襲いかかります。鶴崎城攻略後、日夜、宴会で身体が緩みきっている兵士に続き、泥酔した3将。伏兵を撃退できるわけがなく。易々と伊集院、白浜の2将は討ち取られます。野村備中守も深手を負いながら這々の体で日向に逃げ延びていくのです。
この戦いは寺司浜の戦い(てらじはまのたたかい)とか乙津川の戦い(おとづがわのたたかい)といわれています。
野村備中守も日向に逃げ延びて、この時の傷が原因で死んでしまいます。
もし、悲恋物語でいけば妙林尼が叶わぬ恋ながら野村備中守を生かしたようにも見えますし、英雄物語で言えば、妙林尼が3将をすべて切り倒した勇者のようにも思われます。
この合戦であげた首級63を臼杵の宗麟のもとに届けています。宗麟も「尼の身ながら希代の忠節、古今絶頼也」と賞賛の声をあげています。
また、寺司浜には「千人塚」を築き、討ち取った島津軍の遺体を埋めました。が、その後の村々に災いが降りかかるようになり、「千人塚」に地蔵尊をたて供養したところ災いが静まったといわれています。こちらは「寺司浜地蔵尊」として残っています。
また、この戦いで妙林尼の活躍を知った豊臣秀吉がその武功を称え面会を申し出たが妙林尼は辞退。これ以降の妙林尼の足跡は途絶えてしまうのです。

鶴崎城はこの後、1593年大友氏改易のため廃城になります。
鶴崎城跡地はその後、熊本城城主、加藤清正の領地になり、「熊本藩鶴崎御茶屋」(くまもとはんつるさきおちゃや)として残っていきます。幕末に「成美館」(せいびかん)という藩校になり、現在の鶴崎小学校になっています。
妙林尼のその後はどこに行き、どうなったのか記述がありません。
息子 統増は大友家改易ののち浪人となり椎原五郎右衛門(しいはら ごろうえもん)と称しその子、瀬兵衛(せへえ)が1621年細川氏(ほそかわし)に仕え、幕末にいたっています。息子について行ったなら熊本に行ったのかな?とか鶴崎城跡地の側にいたのかな?と思います。

ただ、この人物、謎が多いので実は大友家の隠し埋蔵金を管理していたのでは?などともいわれています。鶴崎城に大友宗麟の財宝の一部があったとあれば籠城して戦うのもうなずけます。財宝を隠し終えてから開城しその痕跡を知られた3将を口封じで討ち取ったとすれば話が合いますよね。
国東地方にその埋蔵金の隠し歌があるとかないとか・・。

ただ、事実は吉岡鑑興の正室であったこと。
島津侵攻の際、鶴崎城を守ったこと。
降伏後、鶴崎城を攻めた将を討ち取ったこと。
この点は事実のようです。

この攻防戦の偉業をたたえ鶴崎駅の側には吉岡妙林尼の像が建っています。


こちらの像は少々イメージが違う気がしますが・・。
謎の人物だからこその盛り上がりが感じられていいですね。

吉岡妙林尼でした。



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