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噴死 朽綱 鑑康(くたみ あきやす)

朽綱 鑑康は大友家家臣。義鑑、義鎮、義統の三代に仕えた武将です。生誕は1502年没年が1586年。法名は宗暦(そうれき)。記録が確かなら84歳くらいの生涯を生きています。

元々は入田鑑康と名乗っており、入田親門の次男として生まれました。

大友義鑑の時代に臣下として仕えていますが、

1550年二階崩れの変で兄、入田親誠が逐電して討伐されます。次男としてはびっくりでしょうね。兄貴、何してくれたんや!もういい年して何て謝ろう。てとこでしょうね。

おそらくこの時に大友義鎮に忠誠を誓って、義鎮に仕えます。

朽綱の姓を継いだのはこのあたりかな。兄と違って義鎮を盛り立てていきます。

菊池義武討伐に出陣

秋月文種の討伐に出陣

土持親成の討伐に出陣

立花鑑載の討伐に出陣

いずれも武功を挙げています。

1569年の多々良浜の戦いでは毛利軍の乃美宗勝、桂元重を一萬田鑑実親子と撃退しています。また、この年には加判衆に就任。ようやく義鎮が忠誠を認めたところでしょうね。

1578年耳川の合戦では肥後方面軍総大将を志賀親守と共に勤めています。

1584年 立花道雪、高橋紹運、志賀親守らと筑後遠征に出陣。道雪の陣没で遠征終了。

1586年豊薩合戦では隠居で病床の中で戦いに出陣。嫡男鎮則の和睦論に激怒して憤死したそうです。自身が死ぬまで頑張って死守した城も嫡男鎮則は島津と和睦。開場しています。父の宗麟への忠誠心を嫡男には理解されなかったようです。秀吉が九州平定後、大友義統は島津に降伏した武将の処罰を決定。まさに「虎の威を借る狐」の様な義統の愚策です。嫡男 鎮則は上方へ逃げる途中死亡。子の統直は討ち死にします。

鑑康はキリスト教に憧れていた様で次男、三男を入信させて布教活動を奨励したそうです。宗麟への忠誠心溢れる方ですから本当はキリスト教に入信したかったようですが一族、菩提寺から猛反発を受けて断念したそうです。仕方ないので、キリシタンが持つコセッタという玉を持っていたそうです。

宗麟への忠誠心溢れすぎな行動ですが、息子には理解出来なかったのでしょうね。父の宗麟への献身に報いる恩賞がなかったのも原因かもしれません。基本、宗麟はケチです。キリシタンには優しいけどね。

入信した息子はかろうじて助かり浪人生活。苦労の甲斐あってのちに福岡藩士になったそうです。

三国志だと魏の武将、陳倉城を守る郭昭みたいな方ですね。

憤死の武将 朽綱鑑康でした。

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