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子孫は元総理 清田 鎮忠

清田氏は大友氏庶流戸次氏の支族。鎮忠は大友宗麟に仕え、天正6年(1578年)には土持親成の籠城する松尾城攻めに参加し、戦功を挙げた。同年の大友宗麟の日向国侵攻の際は野津院衆を率いて活躍したという。耳川の合戦後の引き上げで活躍したのでしょうか?
室のジュスタは大友宗麟の娘であり、当初は土佐国西部の戦国大名一条兼定の継室であった。その後、兼定と離別して天正3(1575年)鎮忠に嫁いだとされる。ジュスタは天正8年(1580年)に受洗し、鎮忠と同様にキリシタンとなった。

ちょっと謎が多い方ですが、生誕は1529年。死没は1580年と1587年の二つあります。

天正8年(1580年)、大友氏を裏切った田原親貫を国東郡実際寺にて破ったが、帰途で負傷しそのまま死去した。という説と天正15年(1587年)、九州征伐の際、島津に与した大友家臣の讒言により鎮忠は「(追われ)肥前国に籠居」。と記録がある。その後、長崎に逃亡し、それを追う記録もあるそうなので、こちらの方が信憑性が高いとおもわれる。しかし、このときにはすでに盲目で鎮忠は長崎に牢居、天正15年(1587)11月23日病死した。とあります。

大友義統の義兄弟ながら境遇は不遇であり、妻のジェスタや子が苦労したようです。子供が多かったのか?洗礼の名前が重複したのかジェスタという名前がちょくちょくでて困惑します。また清田某も多く出てきますが親戚なのか?子供なのか?わからないものもあります。

鎮忠の婿養子は清田鎮乗とされ、志賀親次の兄弟という。鎮乗は鎮忠の娘・凉泉院との間に細川忠興の側室・吉(幾知、きち、円通院)や男子多数を儲けた。吉は細川立孝を産んでおり、子孫からは元内閣総理大臣の細川護熙が出ている。キリシタンのつながりがあったからなのか?大友家の一族は細川家に召し抱えられていますね。おかげで元総理大臣の名前を見ると子孫が大友家家臣の人だとか考えれて楽しいです。


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