二人の君主に仕えた佐伯惟教

二人の君主に仕えた武将、佐伯惟教(さえき これのり)。戦国時代の武将です。生誕年不明。死没は1578年の12/17。耳川合戦で討ち死にしたんですね。豊後佐伯氏の12代当主で。水軍の長です。二階崩れの変の時、大友義鎮(後の宗麟)に味方し、大友義鎮の重臣になります。熊本地方の制圧に活躍します。しかし、大友義鎮は同族重視の家臣団を編成する傾向が強く。非同族重臣に反感を買うようになります。そして、対立、謀反が起きます。佐伯氏は非同族重臣の筆頭でしたが謀反には参加せず。中立を保ちますが、義鎮は謀反を制圧した後、佐伯氏の討伐を決めます。仕方なく佐伯氏の一族を率いて伊予の西園寺家のもとで仕えます。その後、大友義鎮は毛利元就と対立。水軍の重要性に気づいた義鎮が佐伯氏の復帰を持ちかけます。佐伯惟教は復帰。宗麟には佐伯惟教が必要な武将だったようです。

しかし、その後、宗麟の命により身を寄せた西園寺家を降します。さらには耳川合戦の際には即時戦闘を主張する田北と対立。増援を待っての戦いを主張します。しかし意見がまとまらず。田北氏が島津と勝手に戦闘を起こすと援護して中央に突撃します。優勢でしたが島津の釣り野伏せにかかり、さらには耳川合戦の大将の田原氏の撤退命令で兵士が動揺。右往左往する中、討ち死にします。大友宗麟の片腕に近い存在の佐伯惟教の死は島津氏の台頭を印象付け、さらには家臣の裏切りにつながっていきます。佐伯惟教は非同族重臣のカリスマだったのでしょうね。

よければサポートお願いします。