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2024年7月17日の政治・時事ニュース 朝日新聞の記者の炎上事件で蓮舫氏を支持する理由

今日は主にトランプ前大統領が指名したJDバンス氏の人となりを軸にアメリカの民主主義が終わるかもしれないという記事を書きました。これを書き終わってからXを見ると蓮舫さんが「朝日新聞に対して質問状を送った」と投稿をしていたので「支持します」と投稿しました。なぜ支持するかの理由を書きます。

まず事件のあらましです。蓮舫さんと連合の芳野さんの間にバトルがありました。これについて「だって共産党ベッタリなのは事実じゃん」という書き込みがあります。ここまではまあ運動体の構造的な問題です。しかし次は違います。「自分を支持しない、批判したから衰退しているって、自分中心主義か本当に恐ろしい」と言っています。「自分中心主義」は個人批判ですよね。つまり構造批判と人格批判が癒着しているのです。

日本の政治議論は「政策」「運動体の構造」「個人の性格」についての批評がごっちゃになってしまっています。タレントが選挙報道に参加するというのも極めて特異ですが職業的な訓練はできていませんからどうしても人格問題が混じってしまう。人格について触れることは発言の背景を探るきっかけになりますが、日本人の場合「嫌い」「受け入れられない」として議論を排除する方向に進んでしまうことが多いんですよね。

議論が「政策」や「運動体の構造」の問題であればそれらを改善することはできます。しかしながら個人を否定されるとやはり自分を守りたいという気分が生まれるでしょう。批判されたことで防御的になり本来は解決すべきだった問題も解決しなくなってしまうのです。

しかし、日本の政治議論ではこうした人格攻撃が当たり前に行われおり、普通の人は耐えています。蓮舫氏が「抗議できる」のはおそらく蓮舫氏の生育環境と関係があると思います。常に自分がどう思うかをきちんと表現する「アサーティブさ」を身に着けているのです。

本来、日本人もそろそろアサーティブさを身につけるべきですがなかなかそれは難しい。

兵庫県知事のパワハラを指摘した元県民局長も「人格攻撃によって社会的に抹殺されるかもしれない」というプレッシャーに晒されましたが自己表現はあまり上手ではありませんでした。こうした環境が揃うと今度は「神(かむ)上がり」して「祟神化する」という逆転が可能になります。ただ、その人は全人格を賭けてしまっているわけですから誰かを流すなどして報復し「名誉回復」するしかなくなってしまうのです。

こうなると問題はますます解決しません。

さらに、日本には個人と集団の癒着という問題もあります。

兵庫県の元県民局長側は自己表現は苦手であるが「県庁の職場環境を改善するため」として集団と一体化していった様子が伺えますし、県知事サイドも人事課などを巻き込んだ幹部ムラが背景にありました。鹿児島県警の問題もまた然りです。

つまり課題と人格が分解できないだけでなく個人と集団が分解できないという問題があります。こうなるとますます問題解決など不可能になってしまうわけです。

この某朝日新聞記者は「個人の見解」を半匿名で述べながら表では朝日新聞を代表した記事を書いているわけで、やはり個人と集団が区別できていません。癒着しているだけでなく便利に立場を使い分けている。

おそらく自分は集団(朝日新聞)に守られていると考えていたのでしょう。そして安全地帯から蓮舫氏を批判して炎上しました。ここまで踏み込んだ以上は言論人として自分の問題を整理し何が問題なのかを分析すべきでしょう。「世間をお騒がせしましたごめんなさい」では許されません。

まずはしっかりと個人として問題を整理すべきです。単に世間をお騒がせしてごめんなさいで済ませるべきではありません。

なお、左翼はいつも同じことをやっているじゃないかという指摘が多いです。もちろん「人格と政策・構造の問題」がまぜこぜになっていて、単に排除のための人格攻撃に終わっているのであれば、それはそれで解決されなければなりません。お前はどうなんだ主義(ワットアバウトイズム)は議論のキャンセルには有効ですがおそらくそれだけでは単に不毛なだけでしょう。



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