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サーフィン=自由


二日前の朝、サーフィンをした時の話です。


海に入り、沖で波待ちをしていると、岸から海を見て右手側、大体80メートル位先で、自分の先輩が良い波に乗っていました。


波は腰くらいの高さでしたが、レギュラー(割れる波を正面から見たら左方向に進む)方向の波に気持ちよく乗っていました。


それを見て、『自分もあの波に乗りたい』と思い、パドリングをして先輩が波を待つ場所まで行きました。


自粛明けで久しぶりに会う先輩と会話をしていると、自分たちが座っているさらに沖から一本の波に乗ろうとしている若いサーファーがいました。


先輩:  『〜(名前)波乗りまくってるな〜笑』

どうやら先輩の知り合いのようで、その彼を見ながら呟いてました。

その若いサーファー のパドリングをする姿は、気合が入っていて気持ちが全面に現れていたので

自分:   『いいですね!ユニークなパドリングで!』

と先輩に向かって言いました。


そしたら先輩が、


先輩:  『いいんだよサーフィンは自由だから。』


と、一言。




この一言から生まれた会話を元に今回のnote書こうと閃きました。笑


と、言うわけで

今回は、自分のサーフィンに対する本質的な捉え方と言うか、哲学的な事を書きたいと思います。



『サーフィン哲学vol.1』


サーフィンの良さは自由にある。

決まった型がない。

決まったフォームはない。

サーフィンの本質は楽しいだとか、海に入るだけで気持ちいいだとか、そして自由であること。

サーフィンは本質的に競技ではない。持論だけど、自分は子供の頃からサーフィンはスポーツではないと思っている。

サーフィンはサーフィンだよなって。

サーフィンも今ではオリンピック競技と認定されているが、コンバットスポーツや球技スポーツなどの”競技”が根底にあるスポーツとは絶対的に違う。


もちろん波に乗るまでのルールはあるが、自分の波に乗ってしまえば、その波でどんなライディングをしようともどんなスタイルで乗ろうとも自分の好き勝手なのである。

芸術家が白いキャンバスに何かを描くのと同じで、自分の自由。だからサーフィンもアートだと思っている。

サーフィンは他の競技と比べても、そして実生活の中でみんなと普通に生活をすることと比べても、制約が少ないと思う。


生きている上で、何かをして遊ぶ1つのツールとしてみても ”感じる” ことも含めサーフィンより自由の要素が多いものはあるのだろうか?

語れることはそれだけじゃないが、サーフィンの価値はそういったところにある。


冒頭に書いた先輩の話に戻すと、その先輩は、波乗り道場と呼ばれる日本の有名サーフィンポイントで、現役プロサーファーの自分よりもすごいチューブを成功さているほどのサーフィンの腕前を持っている。※元プロとかではない。

サーファーとして高い技量を持っている先輩は、その日の朝ミッドレングス(ロングボードとショートボードの中間サイズのサーフボード)のボードに乗り、なんの技を狙うこともなく、ただ横に滑るだけでサーフィンを楽しんでいた。


先輩とした会話の中で、『サーフィンは文化だから』と言う言葉もあった。


『サーフィンはカルチャーだー。』


なんて言葉は、サーフィンをやってれいばどこかしらで聞いたことはあると思うが

そのフレーズをわかりやすく一言で表すのなら、 ”サーフィンは生活の一部” ってことだと、自分は認識している。

もっと砕けば ”遊び” 


そんなところだとおもう。




何が言いたいのかと言うと、



”結局、サーフィンは自分が気持ち良く波に乗れればそれでいいのである”




例えば、競技者であって全てが練習になっていたり


例えば、サーフィンうまくなりたくて伸び悩んでいる時だったり


そんな時には、不完全な自分を認めてもう一度思い出す。



サーフィンの本質。



”サーフィンは気持ちよくて楽しい遊び”



そこだけを確認できるように海に入りパドリングする。


そうすればきっと自分の中に既にある”答え”を瞬間、瞬間に感じ取れる。


二日前の朝、先輩とした”サーフィン”の会話はただ一本の波を待つ間5分くらい。


お互いの思っている事をアウトプットすることで、サーフィンの価値観を共有できた。

そして自分の思っている事を人に話す事で自己確認できた良いサーフだった。



この観点の話はまた近くしたいと思う。



読んでいただきありがとうございます。



サーファー  田中 英義


見出し写真 instagram @yasushi_photos





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