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【エッセイ】「市民の積極的な政治参加」こそ統一教会の影響力を削ぐ唯一の正攻法: 立憲主義に反する「魔女狩り」「異端審問」に抗議します

はじめに

米子市の伊木隆司 市長はFacebookで、自身が世界平和統一家庭連合(いわゆる統一教会、以後「統一教会」と呼称)の集会に2回出席して挨拶を述べたとされる報道に触れ、次のように述べました(太線部分は筆者による強調)。

昨日から報道にありますように、私は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の米子市内の施設で開催された集会に、過去、2回、来賓として出席し、あいさつを行っています。
市長という立場は、私の支援者であろうとなかろうと、思想信条がどうであろうと、市民であれば話も聞くし、市政報告を求められれば行うこともありますし、それを私の政治姿勢としています。
悪質な商法が問題ということであれば、消費者契約法に基づいて、適切に司法の手続が行われるべきですし、そこに至らない相談が必要ということであれば、米子市役所内に消費生活相談室がありますので、そこでしっかり相談対応いたします。
また、仮に過去に犯罪歴があったとしても、社会復帰を支援する更正保護活動については、行政としても力を入れているところですので、過去の犯罪歴だけで差別することもありません。
教団側に過去、悪質商法のトラブルがあったことは認識していますが、現時点で国政や警察の側で何等かの措置が取られてない以上、米子市民の皆様の集会に出席することに問題はないと考えています。
そして、市長である以上は、これからもそうした基本的な政治姿勢は堅持していきたいと思っています。
どうかご理解いただきますよう、お願いいたします。

伊木隆司さん(米子市長)Facebookより引用

率直に述べて、これこそ「正論」だと確信します。

心から尊敬していた安倍晋三さんを理不尽な暴力によって失ってから、私は統一教会に関連する報道に触れるたび、「もし自分が政治家の立場だったら」もしくは「もし自分(や、その家族)が信者や、消費者問題の被害者だったら」と、ずっと「自分事」として置き換えながら考え続けていました。

自由民主主義と憲政の尊重と擁護は当然の前提

私は本邦の自由民主主義と憲政が好きです。国会議事堂に足を運ぶたび、この場所で1936年以後の憲政が紡がれ、そもそも憲政が明治時代から連綿と続いている事実に、背筋が伸びる思いがします。この廊下を歴代の内閣総理大臣も通り、きょうも伝統と格式ある憲政の1ページが紡がれていると思うと、身震いせずにはいられません。

戦後、本邦は憲法において国民の「内心の自由」「信教の自由」を明記しました。かつての内村鑑三不敬事件や戦前の宗教弾圧といった歴史に鑑みたら当然です。全体主義を忌避し、個人の自由を尊重する「リベラル」として、この2つの「自由」も守らなければならないと確信します。

こう述べると「統一教会を擁護するのか」と言われるかもしれません。念のため申し上げておくと、私は統一教会に限らず新興宗教が嫌いです。しかし、それはあくまで「私の感想」に過ぎません。社会や制度の議論において、私の感想よりも法で保護された自由や権利が優越するのは当然です。

この自由民主主義を基調とする社会においては「嫌いな相手であっても、その自由や権利を尊重する」姿勢こそ断固として貫かれなければなりません。統一教会に嫌悪感や忌避感を抱くとしても、その「内心の自由」「信教の自由」を守る覚悟がないなら、およそ「公共」領域の議論に参加する資格はありません。

悪徳商法その他は個別の事案として処理するべき

その上で、昨今の統一教会を巡る風潮には強い違和感を拭えません。確かに、統一教会による悪徳商法その他は許せないとしても、たとえば政治や社会への参加を禁じるべきかのような議論は極めて危険と感じています。

悪徳商法その他は個別の消費者問題ないし刑事事件として処理するべきです。統一教会の関係者も「有権者」であるとの前提に立つと、その事実や過去をもって、いたずらに政治参加まで阻むべきではありません。
たとえば中村喜四郎さん、鈴木宗男さんや辻元清美さんのように、過去に有罪判決を受けた政治家も多くいます。前科・前歴は政治参加を拒む十分な理由ではありません。

統一教会を「狙い撃ち」できる根拠の欠如

また、破壊活動防止法に基づく調査対象団体である日本共産党や新左翼(中核派や革マル派ほか)であっても当然に政治参加できるわけで、破壊活動防止法のほか団体規制法や暴力団対策法も適用されていない統一教会を、いったい何の根拠で排除できるというのでしょうか。それに、過去の不祥事を根拠に特定の団体の政治参加を阻むべきとするなら、日本青年会議所(JC)や日本歯科医師連盟もアウトですよね。

いま統一教会を排除しようとしている根拠は他の個人や団体にも、簡単に適用できてしまいます。たとえば「宗教団体は政治に関わるな」なら、創価学会・公明党のほか、近所の寺社や教会も巻き込まれてしまいますよね。「危険な団体を政治から排除せよ」なら、破壊活動防止法に基づく調査対象団体である日本共産党や新左翼も排除されかねません。

これでは本邦の政党政治や(議会制)民主主義は容易に後退してしまいます。創価学会・公明党のほか、日本共産党や新左翼には必ずしも良い感情を抱かないとしても、それでも彼らの政治参加は受け入れるべきであり、また彼らも議論にに加わってこそ活発で健全な自由民主主義と憲政が発展すると信じています。この原則は統一教会であっても、例外なく公平に適用されるものです。

統一教会を暴力団と同様に扱うハードル

統一教会を「反社会的」ないし「反社」と形容する主張も散見されます。しかし、一般に「反社会的」「反社」とは(指定)暴力団を指す単語であり、これを統一教会にも適用するのは務めて慎重でなければなりません。

まず、保護法益に鑑みる必要があります。暴力団対策法に基づく指定暴力団のほか、破壊活動防止法や団体規制法に基づく調査対象団体が脅かしかねない保護法益は「公共の安全」ないし「国家の存立」、もしくは「個人の生命や安全」です。しかし、誤解を恐れずに言えば、統一教会は悪徳商法その他によって直接的には「個人の経済的利益」を侵害するに過ぎません。この点において統一教会は特殊詐欺グループと同じであり、たとえばテロ事件を起こしたオウム真理教を「反社(会的)」と形容するならまだしも、どう考えても指定暴力団とは同等に扱えません。

次に、指定暴力団を定義する暴力団対策法すらも「結社の自由」その他の観点から批判がある点を踏まえるべきです。実際に、暴力団対策法の改正にあたっては立法技術上のハードルが課題となりました。
集団的または常習的に暴力的不法行為に及び得る指定暴力団であっても、その定義や私権制限には(少なくとも法律論として、特に立法技術的に)慎重になりません。統一教会による被害が小さいとは言わないものの、その保護法益に鑑みると、統一教会への規制を気軽に検討するべきとは思えません。

往々にして忘れられる「社会復帰や更生を妨げられない権利」

さらに、伊木さんが述べるように「社会復帰や更生を妨げられない権利」の観点も必要です。統一教会の関係者も、また犯罪者も社会を構成する市民の一員です。それに、統一教会を社会から爪弾きにする限り、ともすれば関係者は悪徳商法で稼ぐほか生きる術がなくなりかねません。

この辺りも、暴力団員の社会復帰に関連する議論を参考にするべきです。元暴力団員が現行の暴力団対策法の規定によって携帯電話回線や銀行口座を作れず「社会に行き場がない」ため、「暴力団に戻らざるを得ない」もしくは「犯罪者になるしかない」構図が繰り返し指摘されてきました。

確かに、いまのところ統一教会の関係者に関して「携帯電話回線や銀行口座まで作らせるな」とまでの主張は見受けられないにせよ、それでも統一教会関係者の社会参加を何らかの形で阻むのならば、やはり同様に「抜け出せない」構図は当然に発生します。
統一教会による不祥事を根拠として統一教会の社会参加を阻むのは、統一教会の関係者の「社会復帰や更生を妨げられない権利」を侵害している、と指摘できます。

統一教会よりも警戒するべき「全体主義」

私は統一教会よりも、個人の自由や権利を国家や社会のために召し上げる「全体主義」に極めて強い嫌悪感や忌避感を抱いています。だから、昨今の「統一教会叩き」の風潮に、私は賛同できません。

統一教会には嫌悪感や忌避感を抱くものの、その自由や権利を尊重するのが自由民主主義における「良識」だと確信しています。また、立憲主義の観点からも当然の要求です。

いま、報道やWebでは政治家に「統一教会の信者なのか」と尋ねる異端審問や、「あの議員や秘書は統一教会の信者かもしれない」との魔女狩りが繰り広げられています。「統一教会の信者を議員にするな!」と公民権を奪うかのような主張も散見されます。正直、開いた口が塞がりません。

この風潮は統一教会よりも遙かに恐ろしく、危険極まりません。それは歴史を振り返り、慎重かつ冷静に考えれば明らかです。

おわりに

もし政治から統一教会の影響力を削ぎたいなら、やるべきことは「統一教会の政治からの排除」ではないと強く断言します。むしろ、統一教会の排除は「差別」であり、明確な「人権侵害」です。

自由民主党 政調会長の萩生田光一さん(前経済産業大臣)が統一教会に頼らざるを得なかった理由の1つとして、「支持基盤の弱さ」が挙げられています。確かに、統一教会は世襲ではない「叩き上げ」の政治家が頼れる支持基盤の1つとして位置づけられている(ないし、位置づけられていた)のは明白な事実でしょう。

世襲の政治家なら、地元に組織力のある後援会ほか強い地盤があります。また、野党なら、労働組合や市民団体を票田にできるでしょう。しかし、たとえば支援してくれそうな企業の存在しないベッドタウンや、産業基盤のない地方だったら、どうでしょうか。
統一教会との関係を擁護したいわけではないにせよ、特に与党ほど頼れる「まとも」な相手が少なく、宗教団体に頼らざるを得ない実情も理解はできます。

つまり、統一教会の政治的な存在感は古典的な「政治とカネ」と、また「政治とヒト(秘書や選挙スタッフ)」の問題に起因します。もし政治家に統一教会ほか宗教団体との断絶を求めるなら、私たちが「票田」や「(広義の)スタッフ」になる必要があります。

日本国憲法は前文において、「国民主権」を高らかに謳い、これを「人類普遍の原理」とまで位置づけています。その「国民」の不在によって生じた空白に、統一教会が巧妙にも付け込んだ結果が「統一教会の政治的な存在感」なのです。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する

統一教会の政治的な存在感は、単に統一教会やその関係者、また統一教会と関係していたとされる政治家を叩けば解決できるものではありません。むしろ、統一教会その他を叩いて「解決したつもり」になったところで、統一教会の代わりに他の誰かが統一教会と同様に振る舞うだけでしょう。
つまり、本来なら、本邦の民主主義そのものに蔓延る根源的な構図を直視して、その変革をしなければなりません。

個々の有権者が「当事者意識」を持って、もっと主体的に行動するべきでした。それを怠ったから、統一教会に付け込む隙を与えてしまったと、本来なら社会として自省しなければなりません。

したがって、統一教会の政治的な存在感を問題視するなら、その解決策は「私たち市民が政治(家)に積極的に関わって、統一教会の影響力を相対的に弱める」のみです。つまり、統一教会の影響力を「希釈する(薄める)」のです。

それが自由民主主義と憲政を擁護し、健全に発展させる唯一の解です。

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