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ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ「柔らかな舞台」

美術のことはいつもはここ「映画日記」には書かないけれど、今回は東京都現代美術館で行われた『ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ「柔らかな舞台」』について書こう。日本ではやはり彼女の作品を「映画」とか「ドキュメンタリー映画」とは言わないだろうが、本人が「映画、または映画言語」に関わる作品だと語り、これは大事なことだと思うからだ。2月19日で終了。

 とにかく初めて見たファン・オルデンボルフ(1962年オランダ生まれ)の作品はは「凄い」のひと言だ。会場構成は簡素だが緻密に計算されており、映写の方法から字幕の付け方まで各々の映像より使い分けられていて、それはそれで美術作品として大事なことではあるのだが、やはり作品については、ひとつひとつ映像全篇を見きらないと安易に語り得ないだろうとは感じる。

 入口を入るとすぐにヘッドフォンの使用を指示される。展覧会場では今時珍しい「有線の」それであり、全部で6点の映像のうち会場に向けて音声が出力される(つまりヘッドフォン無しで鑑賞が可能な)3点とそれ以外とで、音声が混信するのを避ける仕組みだが、舞台状に組まれた客席/プラットフォームに備えつけられる差込口にヘッドフォン・ケーブルを「繋ぐ」ことで、作品からも(文字通り)繋ぎ留められる。ファン・オルデンボルフの作品では重要とされるキャストどうしのコレクティブな関係性は、観客である我々に対しても求められていると理解できよう。

 17世紀オランダ海上帝国の植民地であったブラジルの総督ヨハン・マウリッツの、統治をめぐる「手紙」を読み上げるキャストの映像、それからキャストどうしがそのマウリッツの旧居であるマウリッツハイス美術館の建築空間で交わす対話場面の映像との、2チャンネルで構成される《マウリッツ・スクリプト》(2006年製作)から展示は始まる。
 出自や性別など、立場が異なるキャストどうしで紡ぐ空間は、ひとつの物語に集約されることなく、しかしまた植民地主義や家父長制、あるいはジェンダーやフェミニズムといった、現代に連なる諸所の事象をもまた執拗に炙り出す。《偽りなき響き》(2008年)とともに、初期作品にして完成度の高い、その後のファン・オルデンボルフの制作に繫る重要な作品である。

 近作からは、ポーランドの映画産業に従事する女性たちと制作した《オブサダ》(2021年)、オランダで音楽や文筆活動を行う若い女性たちと制作した《ヒア》(2021年)のように比較的分かりやすいものも、また一方で《ふたつの石》のようにひとつの映像に2チャンネルの音声を当て(字幕は上下2段に同時に投影され、必然的に試聴時間は2倍になる)、複層的な時空を同時に動かすような複雑に構築された作品もある。いずれにしても、植民地主義や家父長制、あるいはジェンダーやフェミニズムといった規範が同一の地平に存在することを理解していることが前提ではある。

さて、ここはやはり3ヶ月の日本での滞在期間を通して制作された最新作《彼女たちの》(2022年)を検証することで、ファン・オルデンボルフの手法にせまるべきだろう。

 《彼女たちの》は、戦前から戦後にかけて活躍した林芙美子(1903〜1951)と宮本百合子(1899〜1951)という、対照的とみられる二人の女性小説家を取り上げた作品だ。しかしなぜファン・オルデンボルフはこの2人の女性作家にアプローチできたのだろうか。
 実は自分たちが考える以上に、海外の(日本語が母語でないといった意味だが)日本文学の研究者は多くいる存在し、英文に翻訳された彼らの著作や、英文で書かれた論文もある。もちろん「ここ」にたどり着くこと自体がファン・オルデンボルフの能力であり知性ではあるが、このことはまたさらにキャストの構成という点で、日本語話者と日本在住のノンネイティブ(日本語/英語話者)の2軸で運用できることであり、小説や随筆、書簡等テキストの「朗読」も日本語/英語(翻訳)の2軸で行なうコレクティブの可能性を拡張できるわけだ。

 オランダ人のファン・オルデンボルフにとって中心的なテーマである植民地主義だが、オランダ領東インド(インドネシア)の植民地支配を終焉へと追いやったのは、皮肉なことに日本の帝国主義でもある。だからこそ日本での滞在制作で、それらのどの範囲を切り出してくるかは、我々にとってことさら興味深いことではある。
 林芙美子は、第二次大戦初期に陸軍報道部の班員としてジャワやボルネオにも滞在し、文章を残している。映像ではそのことにも触れているが、思想的には対極にあろう宮本百合子を(それにロシア文学者湯浅芳子との関係をも)絡めて考察しなおすことで、軍国主義での女性のありようを、さらには戦時下とセクシュアリティーについての、一面的には捉え難い「人間」について問い直し、さらにこれらの問題についてキャストどうしが対話を深めることで、我々が抱える現代に連なる諸問題をより深淵へと落とし込んでいる。

 美術の方では殆ど触れられないと思われるが、《彼女たちの》の製作にあたりファン・オルデンボルフが指名した撮影監督は飯岡幸子氏である。飯岡は濱口竜介監督の『偶然と想像』で撮影を担当し(『ドライブ・マイ・カー』の撮影監督ではないことはある意味で象徴的だと思われる)、カラッと明快な人物像を写し取るカメラマンだ(こういう慣習的な呼称も気になるところだが)。実際作品の映像本体を見て非常に良い選択だ感じた。
 林芙美子記念館での撮影にあたり、いわゆる「ローアングル」のを撮るために屋外に三脚を立て、より低い位置にカメラを据えて撮影したようだ。もっとも映像内で参照される映画は小津ではなく、林芙美子原作の映画を撮った成瀬巳喜男なのだが、作品のインスタレーション(やや湾曲した横長のスクリーン壁に対して床面ギリギリに収めるように映写されている)を含め、日本での撮影から導き出された結果としてのアングルだと思われる。

 映像自体はシングルチャンネルだが、通常のファン・オルデンボルフの作品と比べかなり横長の映像になっている。画面の左半分と右半分とが二つの別々の映像で、しかもスクリーンの中央部分で4分の1程度が重なり合うよう編集されているのだが、各々は飯岡幸子によって撮影された明快な映像にもかかわらず、全体として見ると曖昧さを孕み、さらには床面からの照り返しによる画面への干渉を受け、前述のファン・オルデンボルフの映像作品と比べて異質な印象を受ける。無論そこから林芙美子と宮本百合子の関係性や、宮本百合子と湯浅芳子の親密さについての迷いや曖昧さなどを見てとることができよう。

 ファン・オルデンボルフがこだわる対話の「場」としての「建築」についていえば、林芙美子自身も設計に関わり、晩年まで過ごした新宿下落合の自邸「新宿区立林芙美子記念館」と、前川國男(1905〜1986)設計の「神奈川県立図書館」(図書館機能は2022年9月より新しく建設された本館に移され、現在は前川國男館となっている)、および1950年代に建てられた映画館をリノベーションした、アーチスト(建築家)ランのオルタナティブ・スペース「元映画館」の三箇所で撮影が行われている。また、インタビュー記事を読むと、《ふたつの石》で扱われたウクライナのハルキウにあるKhTZ集合住宅育ちの若い建築家が、現在日本の建築事務所で働いており、キャストとして今回の映像にも参加しているとのこと。

 全体で見れば、戦中の林芙美子と宮本百合子、二人の女性をめぐるテキストを土台にしながらも、植民地主義や家父長制と国家主義あるいは戦争と、ジェンダーやフェミニズム、そして資本主義や社会主義についてまで問題の射程を広げ、現代の日本、日本とオランダ、オランダとインドネシア、さらにはウクライナまでをも含み込む2022〜2023年の世界の現状を見つめつつ、特に若い世代に向けてエールを送るファン・オルデンボルフのアーチストとしての姿が見えてくる。

追記:最後に、展覧会とはあまり関係がないが、最近気になっていることについて以下簡単に述べる。

 ファン・オルデンボルフのような作品のありようとして、自分も本テキストで使ったが、「コレクティブ」という考え方がある。だが、それとは別の話として聞いて欲しいのだが、例えば、他のメンバーと共に何かを作り上げる行為に対して「協働」という言葉に自分は違和感を感じ続けて来た。少なくともここ20年程前から少しずつ目にする機会が増えている言葉である。確かに「協働する」のように動詞としても使え、勝手が良い言葉だろうと思う。ちなみにこの「協働」は戦時下で好んで使われた言葉であって、私自身はそれが故、一切使うことはない。

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