noteはじめました

今日は「普通の人なんてどこにもいない」という話。

初投稿です。
ツイッター上で「日記を書く」と何度も何度もつぶやいたけれど、結局何日も何日も引きずってしまいました。
誰に約束したわけでもないし、誰が読むわけでもないのだけれど、だからこそ「約束していないから『破る』ことにもならないだろ」とみなして、結局書かない……そんな自分自身の意思の弱さに辟易してしまいます。
昔、「作家になるには!」みたいなタイトルの、いかにも作家にならなさそうな人が買いそうな本を良く買ったけれど、そのどれにも「文章を書き続ければ作家になれる」と書いてあったなぁ(ちゃんと読んではいたんだな、これが)。確かにその通りで、文章を書き続けていないから僕は作家になれていないわけですな。取材して雑誌記事は書き続けているけれど、それは作家というよりは、僕を「会社員」たらしめるもので……そのあたりの話はまたの機会に。

さて、この文章は自分に向けて書いたもの、つまりは「日記」という役割にしようと思っています。仕事で書いている文章のように綿密に構成を練って……ということはしたくないので、読みにくかったらごめんなさい。

noteの使い方もわからないので、とりあえず思ったことを書いていくようにしようかなと。そのうち思いついたようになにか書き物をするかもしれませんが、根気はないし、なにか伝えたいことがある人間でもないのでどうしたもんかなぁ。

どうしてこんなに前置きが長いかというと、僕はどうにも、いろんな事をうじうじと考えてしまう性分なのです。だから、人に「ねぇ、〜〜ってどう思う?」って尋ねる際にも、この「〜〜」の部分がとにかく長い(というか、粘着質)。それを嫌がられることも多い。

人に嫌われるのは僕だっていやなんですけど、でも「これが自分の性分なのだからしょーがない」と開き直っている部分もありまして。他の人と折り合いを付けようにもストレスに感じてしまい「あぁ、自分って普通じゃないのかな」と思ってしまうのです。

普通、とは何なんでしょうね。平均なのでしょうか。凡庸なのでしょうか。それとも汎用? 最大公約数? うーん、わからん。

この仕事(記事の執筆、編集)をしていると、よく「読者の気持ちを考えろ」と上長に指導されることがあります。自分が楽しいと思っていても、多くの読者が面白いと思える記事でないと意味が無い、と。
そして、自分が面白いと思って出す企画がことごとく「読者が求めていない」と言われたときに、僕は自分のことを「多くの読者と『面白い』を共有できる、『普通の人』に生まれたかったなぁ」と感じてしまうわけです。

普通の人は、強い。多くの人と共感できるし、突出してる訳でもないからだれにも疎まれない。しかも、色んな人の顔画像を平均して人工的に作成した「普通の顔」は、どうやらイケメンらしいではないか。あー、普通の人になりたい。どうやったら普通の人になれるのかしら。

ところがですね、どうやら普通の人なんて、いないんですって。この漫画によると。
https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4091792685/ref=tmm_hrd_title_0?ie=UTF8&qid=&sr=

リンクうまく貼れないや。『ダルちゃん』という、最近発売された漫画です(宣伝じゃないよ)。これかなんというか、心に刺さった。良い意味でも、読んでて辛いという意味でも。

この漫画の主人公・ダルちゃんは「人前では普通の人を演じてるけれど、ほんとはダルダルでずぼらなダルダル星人(比喩)」という24歳の女の子。内容は省きますけど、彼女の葛藤がことごとく心に刺さった。

この漫画に出てくる登場人物って、ダルちゃん以外のどれも「だれもが心の中に抱えてる闇の象徴」だと思うんだよな。だから、どの登場人物にも共感できる。でも、どれも自分とは違う。どのキャラも普通じゃないし、なんというか、誰でもない。しいていうなら、ダルちゃんはダルちゃん、ということなのかな。なんだか、トートロジー的ですね。この着地に意味があるのだろうか。

あるキャラがダルちゃんに「普通の人なんていないんだよ」と教えてあげるんだけど、僕もそうなのかも知れないなぁと思う。少なくとも僕自身は性癖はどぎついし(多分)、金遣いは異常だし(恐らく)、偏屈でコミュニケーションのやり方に偏りがある(これは確度が高い)。演繹的だけど、僕がそうだし、ダルちゃんに出てくるキャラもみんな普通じゃないから、世の中みんな普通じゃないんじゃないかなと思う。サンプル数は少ないけれど、そしてほとんどがフィクションのキャラだけれど、そう思うに足る作品でした。

要は「この漫画にちょっぴり救われました」って話。

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